シーボルトとは
シーボルトとは、江戸後期にオランダ商館付医員として来日したドイツ出身の医師・博物学者です。文政9年(1826年)、オランダ商館長の江戸参府に同行し、日本橋の長崎屋を拠点とする滞在で日本の医師や学者と知識を交換しました。
正式名称:フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
鳴滝塾から江戸参府へ
シーボルトは1796年にドイツで生まれ、1823年に長崎へ来ました。翌1824年には鳴滝塾を開き、日本各地から集まった医師らに医学や西洋の知識を教える一方、日本人から動植物や暮らしについて学んでいます。
1826年の江戸参府は、自由に旅行できなかったシーボルトにとって、日本を広く調査できる機会でした。江戸では大槻玄沢、宇田川榕菴、高橋景保らと会見・交流。一方的に教えるのではなく、互いに情報や資料を交換したことが特徴といえるでしょう。
日本橋の長崎屋とシーボルト事件
江戸での定宿は、現在の日本橋室町四丁目にあった薬種屋・長崎屋でした。ここには西洋の知識を求める蘭学者や医師が訪れ、限られた江戸滞在中に直接交流できる貴重な場となりました。建物は残っていませんが、場所は長崎屋跡として伝わる史跡です。
江戸参府後の1828年、日本地図や葵の紋付きの衣服など、国外持ち出しが禁じられた品を所持していたことからシーボルト事件が起きました。シーボルトは国外追放・再渡航禁止となりましたが、処分が解かれた後の1859年に再来日。この出来事からも、当時の知識交換に厳しい制限があったことが分かるでしょう。
日本橋トピック♪江戸参府には長崎の絵師も同行した
1826年の一行には、鳴滝塾の門人だけでなく長崎の絵師・川原慶賀も加わっていました。医療の交流だけが目的ではなく、絵によって日本の自然や風俗を記録する調査旅行という一面もありました。
シーボルトに関するよくある質問
- シーボルトは江戸参府の道中で何を調べましたか?
- 長崎市は、道中で植物や動物を採集し、気温や山の高さも測ったと説明しています。日本各地を観察できる貴重な機会でした。
- シーボルトは国外追放後に日本へ戻りましたか?
- 処分が解かれた後、1859年に再来日しました。長崎で研究を続け、幕府に招かれて江戸でもヨーロッパの学問を教えています。

