大伝馬町の地名の由来とは?伝馬制度・木綿問屋・宝田神社の歴史を解説

大伝馬町の400年の歴史を4つの時代に分けて図解したインフォグラフィック。伝馬制度の拠点から木綿問屋街、出版文化の発信地、現代のビジネス街へと変遷した流れを示している

こんにちは!とーんと♡日本橋編集部です。

東京メトロ日比谷線の小伝馬町駅を降りると、すぐ近くに広がる「日本橋大伝馬町」というエリア。
オフィスビルが立ち並ぶこの街を歩いていると、「大伝馬町って、そもそもどういう意味?」「”伝馬”って何のこと?」と気になった方もいるのではないでしょうか。

大伝馬町の地名の由来は、江戸時代の「伝馬(てんま)制度」にあります。
慶長11年(1606年)、徳川家康に仕えた馬込勘解由(まごめ かげゆ)という人物が伝馬役所を構えたことから、この町名が生まれました。

さらに大伝馬町は、家康ゆかりの宝田神社(宝田恵比寿神社)の鎮座地であり、伊勢商人が集まった江戸有数の木綿問屋街でもありました。
「処刑場があった場所では?」と混同されることがありますが、隣接する小伝馬町の牢屋敷と取り違えられているケースが多いようです。

この記事では、大伝馬町の地名の由来をはじめ、伝馬制度の仕組み、宝田神社の歴史、木綿問屋街としての繁栄、小伝馬町との違い、そして現在の街の姿まで、大伝馬町の歴史を丸ごと解説していきます!
日本橋エリアで働いている方も、散策や観光で訪れる方も、ぜひ最後まで読んでみてくださいね♪

目次

大伝馬町の地名の由来は「伝馬制度」。読み方・意味をわかりやすく解説

大伝馬町の地名は、江戸時代の「伝馬(てんま)制度」に由来します。
読み方は「おおでんまちょう」で、正式な住所表記では「にほんばし おおでんまちょう」です。

慶長11年(1606年)、徳川家康に仕えた馬込勘解由(まごめ かげゆ)という人物が、この地に伝馬役所を構えたことが町名の直接のルーツ。
「大伝馬町」という地名には、400年以上前の江戸の物流のしくみの名残が残っているんです。

歌川広重の浮世絵『名所江戸百景』では「大てんま町木綿店(おおてんまちょう もめんだな)」と題された作品があり、江戸時代には「おおてんまちょう」という読みも使われていたことがわかります。現在の正式な読みは「おおでんまちょう」です。

「伝馬」とは?江戸の公用輸送制度をやさしく解説

伝馬(てんま)とは、公用の人や荷物を宿場から宿場へリレー方式で運ぶ輸送制度のことです。
もともとは古代の律令制にルーツがありますが、江戸時代に徳川幕府によって本格的に整備されました。

仕組みをざっくり説明すると、東海道・中山道・甲州道中・奥州道中・日光道中の五街道の各宿場に「問屋場(とんやば)」が設けられ、そこに一定数の人足と馬を常備。
担当区間の荷物を次の宿場まで届けたら、次の宿場の馬と人足にバトンタッチする、というリレー方式です。

伝馬には2種類ありました

  • 御朱印伝馬(ごしゅいんてんま):幕府の朱印状を持つ公用荷物を無償で運ぶ
  • 駄賃伝馬(だちんてんま):一般の物流を有料で請け負う
伝馬制度の仕組みを図解したインフォグラフィック。日本橋から最初の宿場まで人足と馬がリレー方式で公用荷物を継ぎ送りする流れと、御朱印伝馬と駄賃伝馬の2種類を示している
伝馬制度は、現代の公共物流ネットワークにあたる江戸時代の輸送の仕組みでした。

つまり伝馬制度は、現代でいう「国が整備した公共の物流ネットワーク」のようなもの。
大伝馬町は、その物流ネットワークを支える江戸側の拠点のひとつでした。
日本橋五街道の歴史や各街道の特徴について詳しく知りたい方は、あわせてチェックしてみてください♪

馬込勘解由と宝田村からの移転。慶長11年(1606年)の町の成り立ち

大伝馬町の起立は慶長11年(1606年)。
この年、馬込勘解由(まごめ かげゆ)が住民を率いて宝田村(現在の千代田区大手町付近)から現在地に集団移転し、伝馬役所を構えたことが大伝馬町の始まりです。

馬込勘解由は個人の名前ではなく、代々馬込家の当主が継いだ通称(世襲名)とされています。
初代の馬込勘解由は三河国(現在の愛知県東部)の出身で、天正18年(1590年)に徳川家康が江戸に入府した際、人足と馬を率いて出迎えた功績によって伝馬役・名主役を命じられました。

当初は江戸城外の宝田村で伝馬役を務めていましたが、慶長11年に江戸城の拡張工事が行われることになり、宝田村・祝田村・千代田村の三村に立ち退きが命じられます。
このとき、馬込勘解由は宝田村の鎮守(のちの宝田恵比寿神社)を奉安し、住民とともに現在の大伝馬町へ移り住みました。

「宝田」「祝田」「千代田」。3つの村名はどれもおめでたい意味を持っています。
SNS上でも「目出度い地名が重なっていた」と話題になることがあり、江戸城周辺の旧村名に縁起のよさを感じる方は多いようです。

江戸東京博物館の研究報告(第21号)には「大伝馬町の馬込勘解由」と題した論文が収録されており、馬込家が幕末まで名主職を世襲していたことが一次史料から論じられています。
大伝馬町は単なる地名ではなく、江戸の物流を支えた一族の歴史と深く結びついた町名なんですね。

大伝馬町と小伝馬町の違いとは?「三伝馬町」の役割分担を整理

大伝馬町と小伝馬町の最大の違いは、担っていた伝馬の「種類」です。
大伝馬町が五街道の宿場への継ぎ送り(道中伝馬)を担当したのに対し、小伝馬町は江戸城下内の輸送(府内伝馬)を担当していました。

大伝馬町は「道中伝馬」、小伝馬町は「府内伝馬」

江戸時代、大伝馬町・小伝馬町・南伝馬町(現在の中央区京橋)の3つの町は「三伝馬町(さんでんまちょう)」と総称され、幕府からも重要な町として位置づけられていました。
天下祭り(神田明神祭・山王日枝神社祭)では、先頭に山車を引く役割を担っていたとも伝えられています。

三伝馬町それぞれの役割分担は、以下のとおりです。

町名 担当 具体的な役割
大伝馬町 道中伝馬役(月の後半15日) 五街道の日本橋から最初の宿場まで、公用の人馬を継ぎ送り
南伝馬町 道中伝馬役(月の前半15日) 大伝馬町と月を二分して交替で担当
小伝馬町 府内伝馬役 江戸城を中心に品川・四谷・板橋・千住など城下内の輸送
大伝馬町・小伝馬町・南伝馬町の三伝馬町の役割を比較した図解。大伝馬町は道中伝馬で五街道方面、小伝馬町は府内伝馬で城下内、南伝馬町は大伝馬町と月交替で担当していた
三伝馬町はそれぞれ異なる役割を担い、江戸の物流を支えていました。

「大」「小」の違いは馬の頭数の多寡に由来するという説もSNS等で見かけますが、これは俗説の域を出ず、史料に明確な根拠がある定説ではない点に注意が必要です。
役割としては「道中(街道方面)」と「府内(城下内)」という担当エリアの違いが本質的な区別でした。

小伝馬町の名前の由来や歴史については、別の記事で詳しくまとめていますので、あわせてどうぞ!

大伝馬町の場所はどこ?最寄り駅・アクセス情報まとめ

大伝馬町の住所は「東京都中央区日本橋大伝馬町」(郵便番号:103-0011)です。
日本橋エリアの北部に位置し、東西方向に細長い町域を持つ単独町名(丁目なし)で、中央を旧奥州街道こと「大伝馬本町通り」が横断しています。

「大伝馬町駅」という駅は存在しません。
最寄り駅は東京メトロ日比谷線「小伝馬町駅」(徒歩2〜3分ほどが目安)です。検索時に「大伝馬町駅」と入力しても該当する駅はないため、ご注意ください。

大伝馬町周辺で利用できる主な駅は以下のとおりです。

駅名 路線 徒歩の目安
小伝馬町駅 東京メトロ日比谷線 約2〜3分
新日本橋駅 JR総武快速線 約5〜6分
馬喰横山駅 都営新宿線 約5〜6分
三越前駅 東京メトロ銀座線・半蔵門線 約7分

小伝馬町駅の1番出口を出るとすぐ南側が大伝馬町エリアにあたります。
三菱UFJ銀行 大伝馬町支店や日本橋大伝馬町郵便局もこの出口の近くです。

宝田神社(宝田恵比寿神社)の由来と徳川家康との関係

宝田神社(たからだじんじゃ)は、慶長11年(1606年)に宝田村から現在地へ遷座した神社です。
通称は「宝田恵比寿神社」で、現在は神田神社(神田明神)の兼務社として管理されています。

大伝馬町の成り立ちと宝田神社の歴史は、切っても切れない関係にあります。
先ほど触れた馬込勘解由が宝田村から住民を引き連れて移転した際、村の鎮守だった宝田稲荷を一緒に奉安したのが宝田神社の始まりです。

宝田村の鎮守から大伝馬町の守り神へ。創建の経緯とべったら市

宝田神社の創建(遷座)の流れをまとめると、次のようになります。

宝田神社の歴史年表

  • 家康入府以前:宝田村(現・千代田区大手町付近)の鎮守「宝田稲荷」として崇敬される
  • 1590年(天正18年):家康の江戸入府に伴い、馬込勘解由が宝田村で伝馬役・名主役を務める
  • 1606年(慶長11年):江戸城拡張により宝田村が立ち退き → 馬込勘解由が鎮守を奉安して大伝馬町へ移転
  • 文政年間(1818〜1830年):馬込勘解由の邸内社から現在の日本橋本町3丁目10-11へ遷座
  • 1923年(大正12年):関東大震災で本殿以外が焼失
  • 1932年(昭和7年):区画整理により所在地が「日本橋本町」に変更(町域再編のため)
宝田神社の歴史タイムラインを示す図解。家康入府以前の宝田村時代から1606年の大伝馬町への移転、文政年間の遷座、関東大震災を経て現在に至るまでの流れを時系列で整理している

宝田神社の現在の住所は「日本橋本町3丁目」ですが、これは昭和の区画整理で旧・大伝馬町一丁目が本町に編入されたため。もともとは大伝馬町の中にあった神社です。

社伝によれば、御神体の恵比寿神像は「徳川家康から馬込勘解由に下賜されたもの」と伝わっています。
鎌倉時代の名匠・運慶の作とも言われていますが、こちらはあくまで伝承であり、確証となる史料は見つかっていないようです。

宝田神社の祭神は宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)をはじめ事代主命・少彦名命など六柱。
商売繁盛の恵比寿神を祀ることから、木綿問屋街として栄えた大伝馬町の商人たちに深く崇敬されてきました。
宝田恵比寿神社の口コミやお祭り情報は別記事でも紹介しています♪

例年10月19日・20日は「べったら市」!
宝田神社を中心に多くの露店(例年約500軒ともいわれます)が並ぶ、東京の秋の風物詩として親しまれています。
起源は江戸中期の「恵比寿講(えびすこう)」で、お供え物を売る市に並んだ大根の麹漬(べったら漬)が名物に。
若者が通行人の着物にべったら漬をなすりつけて「べったら、べったら」とはやし立てたことが名前の由来とされています。
宝田恵比寿神社の恵比寿講とべったら市の詳しい歴史もぜひあわせてお読みください!

日本橋大伝馬町が「木綿問屋街」として栄えた歴史

大伝馬町は、伝馬役の拠点であると同時に、江戸有数の木綿問屋街でもありました。
宝永2年(1705年)の記録では55軒、元禄年間(1688〜1704年)には74軒以上の木綿問屋が軒を連ねていたとされています。

伊勢松坂商人と三河木綿。江戸屈指の商業地ができるまで

大伝馬町が木綿問屋街へ発展したきっかけは、馬込勘解由が家康ゆかりの三河・伊勢・尾張などから商人を招集したことにあります。
なかでも伊勢国(現在の三重県)松坂出身の商人たちが中心的な役割を果たし、三河木綿の仲買からスタートした商いが大規模な問屋業へと成長しました。

代表的な松坂商人のひとつが長谷川治郎兵衛家です。
延宝3年(1675年)に大伝馬町で創業し、最盛期には5軒もの木綿問屋を構えるまでに繁栄。
歌川広重の『東都大伝馬街繁栄之図』にも長谷川家の江戸店が描かれており、その賑わいぶりが伝わってきます。

越後屋(三越)・白木屋・松坂屋といった名だたる呉服店も大伝馬町に出店
大丸百貨店(当時の大丸屋)も三丁目に店を構えていました。
大伝馬町1丁目には「大伝馬町木綿問屋仲間」という同業組合があり、木綿販売を取り仕切りながら業界の秩序を維持していたとされています。

蔦屋重三郎の耕書堂も大伝馬町に。出版文化の意外な拠点

大伝馬町の商いは木綿だけにとどまりませんでした。
通油町(とおりあぶらちょう、現在の大伝馬町2〜3丁目付近)には、地本問屋(じほんとんや)と呼ばれる出版業者が集まり、江戸の出版文化の中心地としても機能していたんです。

その代表格が、2025年のNHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』の主人公としても注目された蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)
蔦屋重三郎は天明3年(1783年)から享和2年(1802年)まで、大伝馬町に「耕書堂(こうしょどう)」という書店兼出版社を構えていました。

耕書堂から世に出た著名人たち

  • 喜多川歌麿(浮世絵師)
  • 東洲斎写楽(浮世絵師)
  • 山東京伝(戯作者)
  • 十返舎一九(戯作者)
江戸時代の大伝馬町に集まっていた商業の2つの柱を図解。木綿問屋街には伊勢松坂商人や越後屋・白木屋などが、出版文化の拠点には蔦屋重三郎の耕書堂から歌麿・写楽の作品が生まれた
大伝馬町には木綿問屋と出版業という、江戸文化を支えた2つの産業が集積していました。

日本美術史に名を刻む巨匠たちの作品が、大伝馬町から出版されていたというのは驚きですよね!
耕書堂跡地には説明板も設置されており、大河ドラマの影響もあって大伝馬町への注目が高まっています。

なお、明治以降も大伝馬町では繊維・呉服関連の商いが続き、関東大震災(1923年)や戦災を経ながらも、周辺の横山町・馬喰町とともに繊維問屋街として復興してきました。
現在も大伝馬本町通り沿いには繊維関連の店舗が点在しており、江戸から続く商いの伝統が形を変えて残っています。

大伝馬町に処刑場があった?小伝馬町の牢屋敷との混同を正しく解説

「大伝馬町 処刑場」と検索する方がいますが、処刑場や牢屋敷が確認されているのは「小伝馬町」側で、大伝馬町ではないと考えられています。
名前が似ていて地理的にも隣接しているため混同されやすいのですが、これは明確に区別すべきポイントです。

混同されやすい理由

  • 江戸時代の一般庶民が「伝馬町の牢屋敷」と呼ぶ際に、大伝馬町か小伝馬町かを区別せず「伝馬町」とだけ記していた
  • 現代でも両町とも「小伝馬町駅」が最寄り駅で、徒歩圏内に隣接している
  • 「大伝馬町」「小伝馬町」の名前自体が非常に似ている
大伝馬町と小伝馬町の処刑場に関する混同を解消する図解。牢屋敷があったのは小伝馬町側で、大伝馬町は木綿問屋街であり処刑場ではなかったことを○×形式で示している
「伝馬町の牢屋敷」は小伝馬町を指しており、大伝馬町とは異なります。

伝馬町牢屋敷は、元和年間(1610年代)に小伝馬町3〜5丁目へ移転した江戸の刑事司法施設です。
現在の跡地は十思公園(じっしこうえん)・十思スクエア・大安楽寺の一帯にあたり、小伝馬町駅の4番出口から徒歩1〜2分ほどの場所です。

幕末の長州藩士・吉田松陰が安政の大獄(1858〜59年)に連座して斬首されたのも、この小伝馬町の牢屋敷でした。
中央区観光協会の公式サイトでも「現在の小伝馬町の牢屋敷に送られました」と明記されています。
ほかにも橋本佐内・頼三樹三郎、さらには平賀源内や高野長英なども収容された記録が残っています。

大伝馬町に処刑場や牢屋敷が置かれたことを示す史料は、現在のところ確認されていません。
伝馬町牢屋敷跡が「怖い」と言われる理由や吉田松陰終焉の地・十思公園の歴史については、別記事で詳しくまとめていますので、気になる方はぜひ読んでみてください。

現在の大伝馬町と周辺エリアの姿

現在の大伝馬町は、オフィスビルと老舗商店が共存するエリアとして変化を続けています。
令和3年(2021年)の経済センサスによれば、大伝馬町には事業所358か所・従業員7,528人が集まっており、ビジネス拠点としての存在感は十分です。

居住人口も大きく伸びています。
中央区の統計データによると、2000年時点では約130人だった大伝馬町の人口が、2023年には約1,765人(1,045世帯)にまで増加しています。
新築マンションの供給も続いており、「住む街」としての顔も持ち始めています。

横山町・馬喰町・日本橋本町との歴史的つながり

大伝馬町は単独で存在していたわけではなく、周辺の問屋街エリアと一体的な商業圏を形成してきました。

エリア 大伝馬町との関係
横山町・馬喰町 大伝馬町の北側に隣接。江戸時代から現在まで続く国内有数の問屋街。小間物・薬種・繊維の卸売が集積
日本橋本町・室町 大伝馬本町通りの西側で直結。三越(越後屋)の発祥地である室町と一体の呉服・木綿商業圏を形成
東日本橋 清洲橋通りを経て東側に展開。江戸通り(旧奥州街道)で南北につながる一本の軸上に位置
大伝馬町と周辺エリアの歴史的なつながりを示す図解。横山町・馬喰町の問屋街、日本橋本町・室町の呉服商業圏、東日本橋との関係を中心から放射状に配置して整理している
大伝馬町は周辺の問屋街・商業エリアと一体的に発展してきました。

横山町・馬喰町の問屋街では現在も年2回の「大江戸問屋祭り」が開催されており、一般消費者が問屋価格で買い物を楽しめるイベントとして知られています。
大伝馬町から足を伸ばして周辺を歩くと、江戸時代から続く商業の広がりを体感できるはずです♪

三井不動産を中心とした「日本橋再生計画」が進められてきたこともあり、大伝馬町周辺では新しいオフィスビルや複合施設の開発が見られます。
歴史と新しさが重なり合う大伝馬町エリアは、これからも変化し続けていきそうです。

大伝馬町についてよくある質問

Q大伝馬町の地名の由来は何ですか?

A.大伝馬町の地名は、江戸時代の「伝馬制度」に由来するとされています。慶長11年(1606年)に馬込勘解由(まごめ かげゆ)がこの地に伝馬役所を構えたことが、町名の由来として広く知られています。

Q大伝馬町の読み方は?

A.大伝馬町の読み方は「おおでんまちょう」です。正式な住所表記では「にほんばし おおでんまちょう」となります。江戸時代には「おおてんまちょう」という読みも使われていましたが、現在の正式な読みは「おおでんまちょう」です。

Q大伝馬町の最寄り駅はどこですか?

A.大伝馬町の最寄り駅は東京メトロ日比谷線「小伝馬町駅」で、1番出口から徒歩2〜3分ほどが目安です。「大伝馬町駅」という駅はありません。ほかにJR総武快速線「新日本橋駅」や都営新宿線「馬喰横山駅」なども利用できます。

Q大伝馬町と小伝馬町の違いは何ですか?

A.大伝馬町と小伝馬町の最大の違いは、担当していた伝馬の種類です。大伝馬町は五街道の日本橋から最初の宿場までの公用輸送(道中伝馬)を担当し、小伝馬町は江戸城下内の輸送(府内伝馬)を担当していました。地理的にはほぼ南北に隣接しています。

Q大伝馬町に処刑場はあったのですか?

A.大伝馬町に処刑場があったことは確認されていません。処刑場・牢屋敷(伝馬町牢屋敷)が確認されているのは隣接する「小伝馬町」(現在の十思公園・大安楽寺付近)です。吉田松陰が刑死したのも小伝馬町の牢屋敷で、大伝馬町とは区別して捉える必要があります。

まとめ。大伝馬町の地名には江戸400年の歴史が詰まっている

大伝馬町の地名の由来は、慶長11年(1606年)に馬込勘解由が伝馬役所を構えた「伝馬制度」にありました。
この記事の要点を振り返ってみましょう。

  • 大伝馬町の読み方は「おおでんまちょう」。地名は江戸の公用輸送制度「伝馬」に由来
  • 馬込勘解由が宝田村から移転し、五街道への道中伝馬役を担ったのが町の始まり
  • 小伝馬町との違いは担当エリア。大伝馬町は「道中」、小伝馬町は「府内」
  • 宝田神社(宝田恵比寿神社)は大伝馬町の鎮守として馬込勘解由が遷座した神社
  • 伊勢松坂商人が集まり、江戸有数の木綿問屋街として繁栄
  • 蔦屋重三郎の耕書堂も大伝馬町にあり、江戸の出版文化の拠点だった
  • 処刑場・牢屋敷が確認されているのは小伝馬町であり、大伝馬町ではない

伝馬制度の拠点から木綿問屋街へ、そして出版文化の発信地へ。
大伝馬町は時代ごとに姿を変えながらも、400年以上にわたって日本橋エリアの重要な一角を担い続けてきました。

小伝馬町駅から徒歩数分で歩ける大伝馬町界隈には、宝田恵比寿神社や耕書堂跡の説明板など、歴史を感じられるスポットが点在しています。
毎年秋のべったら市の時期に訪れれば、江戸時代から続く賑わいの空気も味わえるはず♪

日本橋で働いている方も、散策や観光で訪れる方も、ぜひ一度、大伝馬町の街並みを歩いてみてくださいね!

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