賀茂真淵とは

賀茂真淵とは、江戸時代中期に活躍した国学者・歌人で、『万葉集』の研究を通じて日本古来の文学や心を明らかにしようとした人物です。国学を大きく育てた一人として知られ、晩年は日本橋浜町あたりに「県居(あがたい)」と名づけた住まいを構えました。今その場所には説明板が残っています。

浜松の神官の家から、江戸で国学の道へ

賀茂真淵(1697〜1769年)は、遠江国浜松(今の静岡県浜松市)の賀茂神社の神官の家に、三男として生まれました。30歳を過ぎてから京へ上り、国学者の荷田春満(かだのあずままろ)に入門します。

その後は江戸へ移り、50歳のころ、八代将軍 徳川吉宗の次男である田安宗武に学問の相談役(和学御用)として仕えました。生活の支えを得て、古典の研究にいっそう打ち込んでいきます。

『万葉考』と、力強い「ますらをぶり」

代表作は『万葉考』。ほかにも『冠辞考』『国意考』『にひまなび』など多くの著作を残しました。真淵は万葉集の歌に、おおらかで力強い男性的な気風を見いだし、これを「ますらをぶり」と呼んで理想としたとされています。後世、荷田春満・本居宣長・平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」のひとりに数えられました。

ここで取り違えやすいのが本居宣長との関係です。二人はともに国学を代表する名前ですが、真淵が師、宣長が弟子。向きを逆に覚えないようにしたいところ。日本橋に構えた県居でのくわしい暮らしぶりは、別の用語ページにゆずります。

日本橋トピック♪門人340人のうち、3分の1は女性だった

浜松市の記録によると、真淵の門人(県門と呼ばれます)は340名を数え、そのうちおよそ3分の1が女性だったと伝わります。学問が一部の男性のものだった時代に、これだけ多くの女性が和歌や古典を学びに集まっていたのは、なかなか意外な広がりではないでしょうか。橘千蔭や村田春海ら「県門の四天王」と呼ばれた弟子も、この門から育ちました。

賀茂真淵に関するよくある質問

賀茂真淵と本居宣長は、どちらが弟子ですか?
賀茂真淵が師、本居宣長が弟子です。宝暦13年(1763年)の一度きりの対面「松坂の一夜」をきっかけに、真淵の国学が宣長へと受け継がれました。
賀茂真淵の代表的な著作は何ですか?
『万葉集』を研究した『万葉考』が代表作です。ほかに『冠辞考』『国意考』『にひまなび』などがあり、日本古来の文学や心を学問として読み解こうとしました。
賀茂真淵と日本橋には、どんな関わりがありますか?
晩年に日本橋の浜町あたりへ住まいを建て、「県居(あがたい)」と名づけて暮らしました。その場所は現在「賀茂真淵県居の跡」として説明板が残っています。

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