三浦按針とは?日本橋室町の遺跡の場所・按針通りの由来・家康との関係を解説

こんにちは!とーんと♡日本橋編集部です。
日本橋三越本店のすぐ向かいに、ひっそりと石碑が建っているのをご存じですか?
そこは約400年前、イギリスからやって来た航海士ウィリアム・アダムスが徳川家康から屋敷を与えられた場所。
日本名を「三浦按針(みうら あんじん)」といいます。
2024年にはFX/Huluのドラマ『SHOGUN 将軍』がエミー賞で多くの部門を受賞し、按針をモデルにしたキャラクターが世界的な話題になりました。
コーエーテクモのゲーム『仁王』やNHK大河ドラマにも登場するなど、いま改めて注目を集めている歴史上の人物です。
でも、意外と「三浦按針って誰?」「日本橋とどんな関係があるの?」という疑問を持つ方も多いのではないでしょうか。
この記事では、三浦按針の生涯と日本橋のつながりを軸に、遺跡(屋敷跡)の場所やアクセス、按針通りの名前の由来、家康との関係、エンタメ作品への登場、さらには「樹木希林は子孫?」という噂の真相まで、まるごと解説していきます!
三浦按針(ウィリアム・アダムス)とはどんな人物?
三浦按針(みうら あんじん)とは、1564年にイングランドで生まれた航海士ウィリアム・アダムス(William Adams)の日本名です。
三浦按針は1600年に日本へ漂着し、徳川家康の外交顧問・旗本として仕えた人物として知られています。
「日本に来た最初のイギリス人」とも呼ばれ、西洋式帆船の建造や日英貿易の実現など、鎖国前夜の日本外交に大きな足跡を残しました。
まずは三浦按針の基本プロフィールから見ていきましょう!
三浦按針の読み方・本名・基本プロフィール
三浦按針の読み方は「みうら あんじん」。
本名はウィリアム・アダムス(William Adams)で、1564年9月24日にイングランド南東部・ケント州ジリンガム(現在のメドウェイ市)で洗礼を受けた記録が残っています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 日本名 | 三浦按針(みうら あんじん) |
| 本名 | ウィリアム・アダムス(William Adams) |
| 生年 | 1564年9月24日(洗礼日) |
| 没年 | 1620年(元和6年) 平戸にて病死・享年55 |
| 出身地 | イングランド ケント州ジリンガム(現メドウェイ市) |
| 職業 | 航海士 → 徳川家康の外交顧問・旗本 |
| 知行 | 相模国三浦郡逸見(へみ)村 250石 |
三浦按針は12歳のときに父を亡くし、ロンドン・テムズ川北岸のライムハウスへ移り住みます。
そこで船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入りし、造船術・航海術・天文学を身につけました。
スペイン無敵艦隊との海戦にも参加
三浦按針は1588年、スペインの無敵艦隊(アルマダ)を迎え撃つイギリス海軍に従軍しています。
食糧・弾薬輸送艦の艦長として参加しており、20代の時点ですでに一流の航海技術を持っていたことがうかがえます。
こうした経歴が、のちに家康から厚い信頼を寄せられる背景になっていったと考えられます。
110人が24人に。リーフデ号の壮絶な航海と豊後漂着
三浦按針が日本にたどり着いたのは、1600年(慶長5年)4月19日のこと。
乗っていたのはオランダ船「リーフデ号」で、豊後国臼杵(現在の大分県臼杵市)の黒島に漂着しました。
三浦按針がこの船に乗ることになった経緯は、1598年にさかのぼります。
按針は弟トマスらとともにオランダのロッテルダムへ渡り、極東を目指す5隻の船団に航海士として志願しました。
| 船名 | 意味 | 結末 |
|---|---|---|
| ホープ号(旗艦) | 希望 | 太平洋で沈没 |
| リーフデ号 | 愛 | 唯一、日本に到達 |
| ヘローフ号 | 信仰 | ロッテルダムに帰還 |
| トラウ号 | 忠誠 | ポルトガルに拿捕 |
| ブライデ・ボートスハップ号 | 良い予兆 | スペインに拿捕 |
三浦按針はもともと旗艦ホープ号の主任航海長でしたが、途中でリーフデ号に移乗しています。
1598年6月24日にロッテルダムを出港し、南米のマゼラン海峡を経由して太平洋を横断するルートでした。
漂着した乗組員は臼杵城主・太田一吉に拘束されますが、この報告を受けた徳川家康が三浦按針を大坂城に呼び寄せたことで、按針の人生は大きく動き出します。
「三浦」は領地の名、「按針」は水先案内人。日本名に込められた意味
三浦按針の日本名「三浦按針」は、1607年(慶長12年)頃に家康から旗本に取り立てられた際に名乗ったとされています。
「三浦」と「按針」、それぞれに明確な由来があります。
「三浦按針」の名前の由来
- 「三浦」 … 家康から与えられた知行地「相模国三浦郡逸見(へみ)村」(現在の横須賀市逸見)の地名から
- 「按針」 … 当時の日本語で「舵手・水先案内人(パイロット)」を意味する言葉。三浦按針の本来の職業である航海士を表している

つまり三浦按針の日本名は「三浦の領地を持つ水先案内人」という意味なんですね。
領地の名を苗字にするのは日本の武士と同じ慣習で、家康が按針を純粋に「武士の一員」として遇したことがわかります。
ちなみに、江戸時代の和書では「安仁」「安信」「安針」「案仁」など、「按針」以外の表記も多く見られたそうです。
三浦按針自身や当時のヨーロッパ側の記録では「アンジン」という呼称は確認されていないとする研究者の指摘もあり、表記の揺れがあったことがうかがえます。
三浦按針の日本名に込められた経緯を知ると、この先の「家康との関係」や「日本橋の屋敷跡」の話が一層面白くなりますよ!
三浦按針と徳川家康の関係を時系列で整理
三浦按針と徳川家康の関係は、1600年5月12日の大坂城での初対面から始まります。
家康は三浦按針の航海術・天文学・西洋の国際情勢に関する知識を高く評価し、外交顧問兼旗本として重用しました。
その信頼は「知行を加増するから日本にいてほしい」と家康自ら懇願するほどだったと伝わっています。
ここでは、三浦按針と家康の関係を時系列に沿って見ていきましょう。
大坂城での初対面。家康が按針を手放さなかった理由
三浦按針が豊後に漂着したのは1600年4月19日。
その約3週間後の5月12日、按針は大坂城で徳川家康と初めて対面しています。
このとき三浦按針は、航海の目的やヨーロッパの国際情勢を臆することなく説明したと記録されています。
特に家康が関心を示したのは、プロテスタント国(イギリス・オランダ)とカトリック国(スペイン・ポルトガル)の宗教対立に関する情報でした。
当時の日本で活動していたカトリック宣教師たちは、按針ら「異端」のプロテスタントを処刑するよう家康に訴えたとされています。
しかし家康はそれを退け、三浦按針を江戸に招きました。
家康が三浦按針を手放さなかった理由
- 航海術・砲術・地理・数学・天文学など、西洋の実用的知識を幅広く持っていた
- プロテスタントとカトリックの対立構造を正確に説明でき、カトリック宣教師の情報を「相対化」する視点を提供した
- 西洋式帆船の建造技術を持っていた
三浦按針は何度も帰国を願い出ましたが、家康はそのたびに却下しています。
家康がシャム(現在のタイ)への渡航を計画する按針に対し「知行を加増してもいいから日本に留まってほしい」と懇願したエピソードは、二人の信頼関係の深さを物語っています。
三浦按針自身も、イギリスに宛てた手紙の中で「この知行はイギリスの封建貴族の身分に匹敵する」と記しており、その待遇が異例だったことがうかがえます。
なお、この時期の江戸・日本橋がどのような街だったのかについては、日本橋の歴史を江戸時代からまとめた記事で詳しく紹介しています。
家康が五街道の起点として整備した日本橋の姿を知ると、按針がこの地に屋敷を与えられた意味がより立体的に見えてきますよ。
按針の功績を年表で解説。西洋式帆船の建造から日英貿易まで
三浦按針が家康のもとで残した功績は、造船・外交・学問と多岐にわたります。
主な功績を年表形式で整理しました。
| 年 | 三浦按針の功績 |
|---|---|
| 1600年 | 家康にヨーロッパの宗教対立・国際情勢を説明。カトリック宣教師への警戒心を高めるきっかけに |
| 1604年 | 伊豆・伊東にて西洋式帆船(80トン)を建造 |
| 1607年 | 120トン帆船「サン・ブエナ・ベントゥーラ」完成。旗本に取り立てられ、三浦郡逸見に250石の知行を与えられる |
| 1609年 | オランダとの通商条約締結・平戸オランダ商館の設置に尽力 |
| 1611年 | スペイン使節の港湾測量を家康に報告し、カトリック宣教師の追放を進言 |
| 1613年 | イギリス東インド会社のセーリスを仲介し、日英貿易許可・平戸イギリス商館の設置を実現 |

なかでも注目したいのが、1604年の西洋式帆船建造です。
三浦按針は伊豆の伊東に造船ドックを設け、80トンの帆船を完成させました。
1607年にはさらに大型の120トン帆船を建造しており、この功績が旗本への取り立てにつながっています。
また、三浦按針は家康や側近たちに幾何学・数学・航海術・天文学を直接教えたとされています。
単なる「通訳」ではなく、外交・技術・学問の全方位で幕府に貢献した、きわめて稀有な存在だったことがわかりますね。
家康亡き後の冷遇と平戸での最期
三浦按針の運命が暗転したのは、1616年(元和2年)の徳川家康の死でした。
二代将軍・秀忠は独自の貿易政策を推し進め、貿易を長崎と平戸の二港のみに制限する「二港制限令」を実施します。
自由貿易を重視していた三浦按針はこの方針転換に反対し、幕府高官に訴え続けましたが聞き入れられませんでした。
その後の三浦按針は、イギリス・オランダ商館のために東南アジアとの私的な交易を続けましたが、貿易条件が改善されることはありませんでした。
そして1620年(元和6年)、三浦按針は長崎県平戸で病死。享年55歳でした。
イングランドに残した妻メアリーと二人の子ども(息子ジョン、娘デリヴァレンス)に再会することは、ついに叶いませんでした。
家康が生きていた16年間は「青い目の旗本」として破格の待遇を受け、家康の死後わずか4年で異国の地に没する。
三浦按針の生涯には、一人の外国人が戦国末期の日本で経験した「光と影」がくっきりと刻まれています。
さて、次のセクションでは三浦按針の屋敷があった日本橋室町の遺跡を詳しく見ていきます。
三越前駅からわずか徒歩3分ほどの場所に、400年前の国際交流の痕跡がひっそりと残っているんです。
三浦按針遺跡(屋敷跡)は日本橋室町のどこにある?場所・アクセス・見どころ
三浦按針遺跡(正式名称:史蹟 三浦按針屋敷跡)は、東京都中央区日本橋室町1-10-8に建つ石碑です。
東京メトロ三越前駅A1出口から徒歩約3分、日本橋三越本店の向かい側にある細い路地「按針通り」を入ってすぐの場所にあります。
東京都指定旧跡にも選ばれているこの碑には、三浦按針の生涯を刻んだ碑文と、没後180年経っても地元の人々が供養を続けた証の石灯籠が残されています。
日本橋三越でのお買い物ついでにも立ち寄れるアクセスの良さが魅力です!
三浦按針遺跡の住所と最寄り駅からの行き方

三浦按針遺跡へのアクセスは、東京メトロ三越前駅が最も便利です。
以下に主要駅からの行き方をまとめました。
| 最寄り駅 | 出口・所要時間 |
|---|---|
| 東京メトロ 三越前駅(銀座線・半蔵門線) | A1出口から徒歩約3分 |
| JR 新日本橋駅 | 3番口から徒歩約4分 |
| JR 東京駅(八重洲口) | 徒歩約15分(約1km) |
三浦按針遺跡は見つけにくいので注意!
三浦按針遺跡の石碑は、建物の脇にひっそりと建てられています。
場所が少しわかりにくいため、「日本橋三越本店の正面(南東側)の向かいにある細い路地(按針通り)を入って、すぐ左手の建物脇」を目印にしてください。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 正式名称 | 史蹟 三浦按針屋敷跡 |
| 住所 | 東京都中央区日本橋室町1-10-8(建物左脇) |
| 指定区分 | 東京都指定旧跡(旧:東京府史跡) |
| 見学料 | 無料(屋外に設置されており、見学しやすい環境です) |
三浦按針遺跡のすぐ近くにはコレド室町もあるので、遺跡を見学した後にショッピングやランチを楽しむのもおすすめです♪
碑文が語る按針の生涯と、石灯籠に刻まれた「安針町」の文字
三浦按針遺跡の石碑には、英文と和文の両方で按針の生涯が刻まれています。
現在の碑は1951年(昭和26年)5月に再建されたもので、初代の碑(1930年建立)は戦災で損傷したため、地元の有志の手で建て直されました。
碑の和文には、三浦按針の生涯が簡潔にまとめられています。
全文を紹介しましょう。
碑文(和文・全文)
「ウイリアム・アダムスは 西暦1564年イギリスのケント州に生れ、慶長5年(1600)渡来、徳川家康に迎えられて江戸に入り、この地に屋敷を給せられた。造船・砲術・地理・數學等に業績をあげ、ついで家康・秀忠の外交特に通商の顧問となり、日英貿易に貢献し、元和6年(1620)4月24日平戸で没した。日本名三浦按針は相模國三浦逸見に領地を有し、またもと航海長であったことに由来し、この地も昭和初年まで按針町と呼ばれた。」
碑文の末尾にある「この地も昭和初年まで按針町と呼ばれた」という一文が印象的ですよね。
三浦按針の屋敷があったこの場所は、按針の没後も長く「按針町(安針町)」という町名で呼ばれ続けていたのです。
なお碑文には英文も刻まれており、英文末尾には「REBUILT SOME JAPANESE, MAY 1951」(1951年5月 日本人有志により再建)と記されています。
また英文の碑文では按針の日本人妻を「MISS MAGOME(馬込氏の娘)」としていますが、この妻の出自については史料上の裏付けがなく、研究者の間でも議論が続いている点は留意が必要です。
石灯籠にも注目! 没後180年経っても続いた「安針町」の供養
三浦按針遺跡の碑の傍らには、石灯籠が一対置かれています。
正面に「江戸日本橋 安針町」、側面に「寛政十歳 戊午二月(1798年)」と刻まれたもので、按針の没後およそ180年が経ってもなお、安針町の人々が横須賀・逸見にある按針の供養塔に奉納したものとされています。
地元の人々がいかに三浦按針を慕い続けていたかが伝わるエピソードです。
按針通りの名前の由来。旧町名「安針町」から続く400年の記憶
按針通りは、東京都中央区日本橋室町1丁目にある通りの通称名です。
日本橋三越本店の正面(南東側)から東方向に延びる細い通りで、三浦按針遺跡の石碑はこの按針通り沿いに建っています。
按針通りの名前の由来は、かつてこの一帯が「安針町(按針町)」と呼ばれていたことにあります。
三浦按針が家康から屋敷を与えられたこの場所は、按針の名にちなんで「安針町」という町名がつけられ、江戸時代を通じて使われ続けました。
しかし1932年(昭和7年)、関東大震災後の帝都復興計画による町名整理で、安針町は日本橋室町一丁目・本町一丁目に編入され、正式な町名としては消滅します。
それでも地元の人々はこの場所を「安針町」「按針通り」と呼び続けました。
現在も電柱に「按針通り」の表示が残っており、400年前に名付けられた地名が、かたちを変えながら今も日本橋の街角に息づいているのです。
- 三浦按針の屋敷があった当時、この一帯は「江戸前島」と呼ばれる岬状の地形で、日本橋魚河岸の発展とともに商業地区として栄えていました
- 「按針通り」の通称名がいつ正式に付されたかの記録は確認されていませんが、旧町名の廃止後も通称として定着しています
『SHOGUN 将軍』『仁王』など、エンタメ作品に登場する三浦按針
三浦按針(ウィリアム・アダムス)は、小説・ドラマ・ゲームなど多くのエンタメ作品のモデルになっています。
特に2024年のFX/Huluドラマ『SHOGUN 将軍』がエミー賞で多くの部門を受賞したことで、世界的に三浦按針への関心が高まりました。
ここでは三浦按針が登場する代表的な作品と、よく話題になる「細川ガラシャとの関係」の真相を整理します。

エミー賞18冠『SHOGUN 将軍』と按針モデル「ジョン・ブラックソーン」
三浦按針をモデルにした最も有名な作品が、ジェームズ・クラベルの小説『将軍(SHOGUN)』(1975年)です。
この小説ではイギリス人航海士「ジョン・ブラックソーン」が主人公の一人として描かれており、三浦按針の生涯をベースにしたフィクションとなっています。
2024年にはFX/Huluで新たにドラマ化され、真田広之がプロデュース・主演(虎永=徳川家康モデル)を務めました。
ブラックソーン役はコスモ・ジャーヴィスが演じています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作品名 | SHOGUN 将軍(FX/Hulu 2024年) |
| 按針モデル | ジョン・ブラックソーン(演:コスモ・ジャーヴィス) |
| 家康モデル | 吉井虎永(演:真田広之) |
| 受賞歴 | 第76回プライムタイム・エミー賞 18部門受賞 |
| 特記 | 日本語ドラマとして初の最優秀ドラマ作品賞受賞 |
NYタイムズやVarietyなど海外の大手メディアでも大きく報じられ、三浦按針の出身地であるイギリス・ジリンガムの地元メディアも「故郷の英雄が世界的な注目を浴びた」と特集を組んでいます。
ちなみにジリンガムでは、2000年から「Will Adams Festival(ウィル・アダムス・フェスティバル)」という年次イベントが開催されています。
太鼓演奏や書道ワークショップなど日本文化の催しも行われているそうで、400年前の航海士が現代の日英交流の架け橋にもなっているんですね!
三浦按針と細川ガラシャの「悲恋」は創作。史実との違い
三浦按針と細川ガラシャ(明智玉)の間に直接的な接点があったとする一次史料は、現時点で確認されていません。
二人の「悲恋」を描いた物語は、あくまで創作上のフィクションです。
小説『将軍(SHOGUN)』では、細川ガラシャをモデルとした「マリコ(戸田鞠子)」と按針モデルの「ブラックソーン」の間に深い関係が描かれており、2024年のドラマ版でもアンナ・沢井が演じるマリコが主要人物として登場しています。
時系列で見ると、三浦按針が豊後に漂着したのは1600年4月。
細川ガラシャが大坂の細川屋敷で亡くなったのは同年7月17日です。
三浦按針は漂着直後に拘束されており行動が制限されていたため、二人が実際に会ったとは考えにくい状況でした。
ドラマや小説を楽しむうえでは素敵な物語ですが、史実と創作の違いを知っておくと、作品をより深く味わえるのではないでしょうか。
大河ドラマ「どうする家康」やゲーム『仁王』にも三浦按針が登場
三浦按針は『SHOGUN 将軍』以外にも、複数のエンタメ作品に登場しています。
主な作品を整理しました。
| 作品 | 年 | 三浦按針の扱い |
|---|---|---|
| NHK大河「徳川家康」 | 1983年 | ダン・ケニーが演じた |
| NHK大河「どうする家康」 | 2023年 | 村雨辰剛が三浦按針を演じた |
| ゲーム『仁王』(コーエーテクモ) | 2017年 | 主人公「ウィリアム」のモデルが三浦按針 |
2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」で三浦按針を演じた村雨辰剛さんは、スウェーデン出身の俳優・庭師という異色の経歴の持ち主。
「外国人でありながら日本文化に深く根ざして生きる」という点で、三浦按針と重なる部分があり、話題を呼びました。
放送後の2023年10月には、村雨さんが日本橋で行われた「按針の会」パレードにも参加しています。
また、コーエーテクモのアクションRPG『仁王』(2017年)では、主人公の名前がそのまま「ウィリアム」で、三浦按針をモデルにした設定として案内されています。
ただしゲーム内では「アイルランド出身の元海賊」という創作設定になっており、史実とは異なる点に注意です。
近年は三浦按針に関する話題も増えており、関心の高まりがうかがえます。
三浦按針の子孫にまつわる謎。樹木希林との関係は?
三浦按針の子孫が現在も存在するかどうかは、歴史的に確認されていません。
按針には日本で生まれた息子ジョゼフと娘スザンナがいましたが、その後の消息は史料から消えており、「家が絶えた」とされるのが通説です。
一方で「女優の樹木希林さんが三浦按針の子孫ではないか」という説が話題になったこともあります。
ここでは、按針の子孫にまつわる謎を整理してみましょう。

息子ジョゼフのその後。鎖国の波に消えた按針の血筋
三浦按針には日本人の妻との間に、息子ジョゼフ(Joseph Adams)と娘スザンナ(Susanna Adams)がいました。
三浦按針の死後、息子ジョゼフは父の知行(相模国三浦郡逸見、250石)と「三浦按針」の名を相続したとされています。
ジョゼフは1616年4月に平戸のイギリス商館長リチャード・コックス宛に手紙を送った記録があり、オランダ商館の記録でも「Mioura Ains(三浦按針)」として言及されています。
三浦按針の遺言(イギリス商館長コックスが記録)によれば、財産の半分をイングランドの妻子に、残り半分を日本の妻と二人の子どもに与えるよう指示していたそうです。
異国の地で二つの家族を想い続けた按針の胸中を思うと、胸が締めつけられます。
「樹木希林は按針の子孫」説はなぜ広まった?
「樹木希林さんの父方が三浦按針の子孫ではないか」という説は、2016年6月9日放送のNHK「ファミリーヒストリー」(樹木希林回)が主な情報源です。
番組では樹木希林さんの先祖を辿る中で、父方の姓が「三浦」であったこと、そして「色白で背が高く、日本人離れしていた」という家族の証言が紹介されました。
これがきっかけで「三浦按針の子孫なのでは?」という推測が広がったとされています。
とはいえ、400年前にイギリスから来た航海士の物語が、現代の人気女優の家系と結びつくかもしれないというロマンは、歴史好きにはたまらない話題ですよね。
事実と伝承の境界を楽しむのも、歴史の醍醐味ではないでしょうか。
三浦按針と日本橋に関するよくある質問(FAQ)
三浦按針と日本橋に関して、読者の方からよく寄せられる質問をまとめました。
Q三浦按針遺跡(屋敷跡)の最寄り駅と行き方は?
A.三浦按針遺跡(屋敷跡)の最寄り駅は東京メトロ三越前駅(銀座線・半蔵門線)で、A1出口から徒歩約3分です。JR新日本橋駅の3番口からは徒歩約4分、東京駅八重洲口からは徒歩約15分です。住所は東京都中央区日本橋室町1-10-8で、日本橋三越本店の向かいにある「按針通り」沿いの建物脇に石碑が建っています。
Q按針通りはどこにある?名前の由来は?
A.按針通りは東京都中央区日本橋室町1丁目、日本橋三越本店の向かいに位置する通りです。按針通りの名前の由来は、かつてこの一帯が三浦按針の屋敷地にちなんで「安針町(按針町)」と呼ばれていたことにあります。安針町は1932年(昭和7年)に日本橋室町一丁目に編入されて正式な町名としては消滅しましたが、通称として「按針通り」の名が現在も残っています。
Q三浦按針の読み方は?本名は?
A.三浦按針の読み方は「みうら あんじん」です。三浦按針の本名はウィリアム・アダムス(William Adams)で、1564年にイングランド・ケント州ジリンガムで洗礼を受けた記録が残る航海士です。「三浦」は家康から与えられた領地・相模国三浦郡に、「按針」は水先案内人(航海士)を意味する当時の日本語に由来しています。
Q三浦按針の死因は?
A.三浦按針の死因は病死とされています。三浦按針は1620年(元和6年)に長崎県平戸で亡くなりました。享年55歳です。徳川家康の死後、二代将軍秀忠のもとで外交顧問としての立場を失い、晩年は平戸を拠点にイギリス・オランダ商館のための東南アジア交易に携わっていました。
Q三浦按針はNHK大河ドラマに登場した?
A.三浦按針はNHK大河ドラマに複数回登場しています。2023年の「どうする家康」では俳優・庭師の村雨辰剛が三浦按針を演じました。1983年の「徳川家康」ではダン・ケニーが演じています。また三浦按針をモデルにしたキャラクターは、FX/Huluのドラマ『SHOGUN 将軍』(2024年)やコーエーテクモのゲーム『仁王』(2017年)にも登場しています。
まとめ。日本橋室町で触れる400年前の国際交流の記憶
三浦按針(ウィリアム・アダムス)は、1600年にイギリスから日本へ漂着し、徳川家康の外交顧問・旗本として活躍した航海士です。
三浦按針が家康から屋敷を与えられた場所が、現在の東京都中央区日本橋室町1丁目。
その屋敷跡に建つ石碑と「按針通り」という通称名が、400年前の国際交流の記憶を今に伝えています。
この記事のポイントまとめ
- 三浦按針の本名はウィリアム・アダムス。「三浦」は領地の名、「按針」は水先案内人の意味
- 三浦按針遺跡(屋敷跡)は日本橋室町1-10-8、三越前駅A1出口から徒歩約3分
- 按針通りの名前の由来は、旧町名「安針町(按針町)」。1932年に町名は消滅したが通称として現存
- 碑の傍らの石灯籠(1798年)は、按針没後180年経っても地元の人々が供養を続けた証
- ドラマ『SHOGUN 将軍』(2024年)の受賞をきっかけに、世界的に改めて注目
- 細川ガラシャとの「悲恋」は19世紀の西洋書籍を起源とする創作
- 「樹木希林は按針の子孫」説は未確認の伝承にとどまる
日本橋三越でのお買い物やランチのついでに、ほんの5分だけ足を延ばしてみてください。
建物の脇にひっそりと佇む石碑を見つけたとき、日本橋の街の見え方がちょっと変わるかもしれません。
日本橋エリアには三浦按針の遺跡以外にも、歴史的な人物ゆかりのスポットが点在しています。
たとえば、幕末の英雄の足跡を訪ねるなら日本橋人形町に残る西郷隆盛の屋敷跡も興味深いですし、同じ東京都指定旧跡として伝馬町牢屋敷跡と十思公園の歴史を巡ってみるのもおすすめです。
400年の歴史が重なる日本橋を、ぜひ歩いて楽しんでみてくださいね!
