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土洲橋とは

土洲橋とは、箱崎川に架かり、蛎殻町箱崎町を結んでいた橋です。読みは「どしゅうばし」。中央区まちかど展示館の特集によると、初代は1905年(明治38年)に架けられました。箱崎川の埋め立てとともに撤去され、橋は現存しません。

資料上の別表記:土州橋

山内家の私財で架けられた初代

橋梁史年表は、1905年の初代を「山内家の私財による」木橋と記しています。橋の一方の端にあたる箱崎町四丁目は、山内家の屋敷があった場所。「土州」は土佐国の別称で、その土佐藩を治めたのが山内家です。

鉄の橋に架け替えられ、震災にも耐えた

2代目は、1915年(大正4年)5月30日に完成した鉄の桁橋です。まちかど展示館の特集には、この年に刊行された『土州橋開通祝賀記念』の開通式の写真も載っています。1923年の関東大震災では、近くの汐入橋永久橋箱崎橋といった木造の橋が焼失しました。一方、鉄造の土州橋は「一部破損」にとどまったと、『東京震災録』の被害表は記録しています。

箱崎川は首都高速の建設に伴って埋め立てられ、その際に川の橋はすべて撤去されました。土洲橋の跡は、いまの首都高速箱崎JCTの真下です。

日本橋トピック♪荷風が通った病院は土洲橋のほとり

永井荷風は随筆『深川の散歩』(1935年)で、中洲の河岸にあった旧友の病院が、のちに箱崎川にかかっている土洲橋」のほとりへ移ったと書いています。荷風は診察を受けた帰りに清洲橋を渡り、深川の町を歩くのが習いでした。地図から消えた橋の名は、文豪の散歩の起点として作品のなかに生き続けているといえるでしょう。

土洲橋に関するよくある質問

「土洲橋」と「土州橋」は別の橋ですか?
同じ橋の表記の違いです。中央区まちかど展示館の特集は見出しを「土州橋」、昭和43年の写真の説明を「土洲橋」としています。永井荷風の『深川の散歩』は「土洲橋」と書いています。
土洲橋の両端はどこでしたか?
関東大震災の被害をまとめた『東京震災録』の表では、日本橋区の箱崎町四丁目と蠣殻町三丁目です。中央区まちかど展示館は、橋の跡を現在の首都高速箱崎ジャンクションの下と紹介しています。

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