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用語 神社仏閣

末廣神社とは

末廣神社とは、東京都中央区日本橋人形町にある稲荷社で、日本橋七福神では毘沙門天を祀る社です。慶長元年(1596年)には鎮座していたという記録が残り、社名は社殿の修復中に見つかった末広がりの扇(中啓)にちなむと伝わります。

元吉原の鎮守から、四か町の氏神へ

江戸のはじめ、この社はどんな人々に支えられていたのでしょうか。公式の由緒によると、元和元年(1615年)には、徳川家康の命で駿河国から呼び寄せられた山本院實行が当社に奉仕しました。元和3年(1617年)、庄司甚右衛門らが幕府の許しを得て周辺の沼地を開き、遊郭「葭原(吉原)」が生まれると、人々は当社を鎮守(地主神)としてあつく信仰します。浅草へ移る前のこの吉原が、いわゆる「元吉原」です。

明暦3年(1657年)の大火のあと吉原が浅草へ移ってからも、跡地にできた難波町・住吉町・高砂町・新和泉町の四か町の氏神として信仰されてきました。今の社殿は、昭和22年に再建された総檜造りです。

社名は、半ば開いた扇から

「末廣」の名は、延宝年間(1673〜1681年)の社殿修復で見つかった一柄の中啓にちなみます。中啓は、親骨の上端を外側に反らせ、畳んでも半開きに見える扇のこと。「中ば啓いて先が広がる」形が末広の名につながりました。その中啓は、今も社の御神宝。日本橋七福神では毘沙門天を担う社として、正月には七福神めぐりの参拝者も訪れます。

日本橋トピック♪もう一柱のお稲荷さま「養母世稲荷」

末廣神社には、もう一柱のお稲荷さまが相殿でまつられています。名は「養母世稲荷」。公式の由緒によると、江戸の世、高砂町(今の富沢町南部地区)に、助産婦をして暮らしを立てながら、働く女性の子どもを預かり、親から見捨てられた孤児を引き取って食事を与え、学問も教えてわが子のように育てた女性がいたそうです。その女性が亡くなると、人々は生き方をたたえて稲荷社を建て、町の有志が守り継いできました。社を維持できなくなったとき、祭礼を古くから務めていた縁で末廣神社が預かることに。以来、女性と子どもの守り神として信仰されています。

末廣神社に関するよくある質問

末廣神社の例祭はいつですか?
公式の由緒によると、例祭日は5月22日です。
末廣神社の「廣」はどう読みますか?
社名は「すえひろじんじゃ」と読みます。「廣」は「広」の旧字体です。

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