岡崎町の内武家地とは
岡崎町の内武家地とは、岡崎町の中にあった武家地を区別する旧表記です。読みは「おかざきちょうのうちぶけち」。中央区立図書館の町名変遷表では慶応3年(1867年)の欄に独立項目として載り、そこから現在の中央区八丁堀へつながります。
一つの町に武家地と町屋が同居していた
「岡崎町の内」は岡崎町の範囲内、「武家地」は武家に関わる土地という意味。町名だけでは分けられない土地の性格の違いを書き分けた表記です。『日本歴史地名大系』によると、岡崎町の一帯は寛永江戸図では寺地で、のちに武家屋敷地となり、享保6年(1721年)に収公されて町奉行組の与力・同心の拝領地になりました。そして拝領地となってまもなく、地内では町屋も開かれます。つまり一つの町の中に武家の拝領地と町人の町屋が並んでいたわけです。表がわざわざ「の内武家地」と断ったのは、この重なりを区別するためでした。
変遷表では八丁堀へつながる
変遷表は慶応3年、明治4年6月、大正12年の大震災後、現町名という四つの節目を左から右へ並べます。岡崎町の内武家地は、すぐ下に並ぶ八町堀亀屋屋敷・武家地と一つの中括弧でまとめられ、明治4年6月の岡崎町、大正12年の西八丁堀を経て、現町名の八丁堀へ至ります。なお表の凡例は丁目を省くと断っているため、住所として調べるときは何丁目かを地図で確かめましょう。岡崎町そのものの町域は、現在の八丁堀二丁目から三丁目にあたります。
日本橋トピック♪同じ「岡崎町」でも行き先が違う
岡崎町の内武家地に関するよくある質問
- 「岡崎町」という町名の由来は何ですか?
- 『日本歴史地名大系』は、拝領地となってまもなく地内で町屋が開かれ、名主の岡崎十左衛門にちなんで岡崎町と称されたと説明しています。
- 変遷表には「武家地」とだけ書かれた行もありますが、違いはありますか?
- 慶応3年の欄には、町名の付かない「武家地」だけの行も並びます。岡崎町の内武家地は、どの町の範囲にある武家地なのかまで示した表記です。

