両国広小路記念碑とは

両国広小路記念碑とは、江戸時代に大いににぎわった盛り場「両国広小路」を顕彰して建てられた石碑です。両国橋の西詰、中央区東日本橋の靖国通り沿いに立ち、かつてこの一帯が江戸有数の歓楽街だったことを今に伝えています。

いつ、誰が建てた碑か

この碑が建てられたのは昭和44年(1969年)11月3日。地元の中央区日本橋両国町会が建立したと伝えられています。場所は両国橋の西詰、靖国通りに面した一角(中央区東日本橋2-26先)。買い物や食事のついでにふと足を止め、江戸の盛り場の記憶に触れられるスポットです。

碑に刻まれた両国広小路の物語

碑文には、両国広小路が生まれたいきさつが記されています。きっかけは明暦の大火(1657年)。江戸の市街地の大半を焼いたこの大火を教訓に、避難路として両国橋が架けられました。さらに延焼を防ぐため、橋のたもとの一帯が「火除け地」として空き地のまま残されたのです。

その空き地がやがて広小路となり、上野・浅草と並ぶ江戸三大広小路の一つとして発展しました。見世物小屋や芝居小屋が立ち並び、夏には納涼船も出る、たいへんなにぎわいでした。

日本橋トピック♪火事よけの空き地が、江戸一番の盛り場になった

両国広小路の面白さは、その成り立ちにあります。もともとは火事の延焼を防ぐための「空き地」として、あえて何も建てずに残された場所でした。ところが広い空間に人が集まり、大道芸や見世物が始まると、いつしか江戸でも指折りの歓楽街に。防災のための土地が、皮肉にも江戸随一のにぎわいを生んだのです。両国橋を渡る人の波が、その繁栄を支えていました。

両国広小路記念碑に関するよくある質問

両国広小路は今もにぎわっていますか?
盛り場としての役割は明治期に薄れ、今はオフィスや問屋街が広がる落ち着いた一帯です。記念碑が、かつてのにぎわいを静かに伝えています。
両国広小路は、相撲で有名な両国にあったのですか?
いいえ。両国広小路は両国橋の西側、中央区側にありました。相撲の国技館などがある両国は川をはさんだ東側(墨田区)で、別の場所です。
「江戸三大広小路」とは何を指しますか?
碑文では、両国・上野・浅草の三つの広小路を指しています。いずれも火除け地から発展した、江戸を代表する盛り場でした。

あわせて読みたい記事