日本橋両国とは
日本橋両国とは、隅田川に架かる両国橋の西詰、現在の東京都中央区東日本橋二丁目あたりにあった地名です。江戸時代には「両国広小路」という盛り場でにぎわい、上野や浅草と並ぶ歓楽街として親しまれました。住所としては残っていませんが、両国橋の名にその面影をとどめています。
「両国」は二つの国にまたがる橋から
隅田川は江戸時代まで、武蔵国と下総国という二つの国の境でした。そこに架けられた橋が二つの国をまたぐことから「両国橋」と名づけられ、その橋の名が西詰一帯の地名になったとされています。両国とは、もともと「二つの国の境い目」を指す言葉だったわけです。
相撲の両国とは川をはさんで反対側
両国と聞いて、まず思い浮かぶのは何でしょうか。多くの方は、国技館や江戸東京博物館がある相撲のまちかもしれません。ただ、そちらは隅田川の東側にあたる墨田区の両国。日本橋両国は川の西側、中央区側を指します。同じ名前でも川をはさんで東西に分かれていると知っておくと、街歩きで迷いません。墨田区側は1967年に「東両国」から「両国」へ改められました。
今は「東日本橋」になっている
日本橋両国は、1971年(昭和46年)の住居表示で、隣り合う日本橋米沢町や日本橋薬研堀町などと一つにまとめられ、「東日本橋」という新しい町名になりました。今の中央区東日本橋二丁目が、かつての日本橋両国にあたります。盛り場のにぎわいこそ移り変わりましたが、両国橋を渡る人の流れは今も絶えません。
日本橋トピック♪両国のにぎわいは「辻講釈」から始まった
両国広小路のにぎわいは、道ばたで『太平記』などの物語を語って聞かせる「辻講釈」から始まったと伝えられています。やがて見世物小屋や芝居小屋、飲み屋が次々と建ち並び、江戸でも指折りの盛り場へ育ちました。防火のために設けられた空き地が、いつしか人の集まる歓楽街に変わっていったのです。この辻講釈の流れは、後の講談へとつながっていきます。
関連用語
日本橋両国に関するよくある質問
- 両国広小路では、どんな見世物が楽しめたのですか?
- 見世物小屋や芝居小屋が建ち並び、軽業や手品、浄瑠璃、講談などでにぎわいました。夏には納涼船も出て、夕涼みの名所としても親しまれたと伝わります。
- 日本橋両国のあたりを歩くと、今は何がありますか?
- オフィスや問屋街が広がる落ち着いた一帯です。両国橋の西詰には「両国広小路記念碑」が立ち、かつての盛り場の歴史を伝えています。
