日本橋米沢町とは
日本橋米沢町とは、両国橋の西詰に広がっていた「両国広小路」のすぐそばにあった、東京都中央区の旧町名です。読みは「よねざわちょう」。江戸時代から続いた町ですが、現在は中央区東日本橋一丁目に姿を変え、地名としては残っていません。
「米沢」は米どころではなく米蔵から
米沢町と聞くと、米どころの山形県・米沢を連想する方もいるかもしれません。ところが、この町名は幕府の米蔵にちなむとされています。正保年間(1645〜1648年)ごろ、このあたりには「矢ノ倉」と呼ばれた米蔵がありました。その米蔵が1698年(元禄11年)に焼失して築地へ移されたあと、跡地に町ができ、米蔵の記憶を残す名がついたと伝えられています。山形の米沢とは関係がない、というわけです。
町として正式に起立したのも、同じ元禄11年(1698年)のこと。江戸でも古い歴史を持つ町のひとつでした。
盛り場のにぎわいの一角に
では、この町はどんな表情を見せていたのでしょうか。米沢町は、上野・浅草と並ぶ盛り場だった両国広小路に隣り合う立地。見世物や芝居でにぎわう人波のすぐそばで、橋を渡る旅人や見物客が行き交いました。隅田川沿いの通りは「元柳河岸」と呼ばれています。
今は「東日本橋」の一部
米沢町は、1971年(昭和46年)の住居表示でその名を終えました。村松町や若松町、薬研堀町などとともに東日本橋一丁目へまとめられ、隣り合っていた日本橋両国(現在の東日本橋二丁目)などと並んで、今の東日本橋を形づくっています。旧町名をたどると、江戸の盛り場の記憶が地面の下から立ちのぼってくるようです。
日本橋トピック♪米蔵が焼けて、町が生まれた
米沢町のおもしろいところは、町の誕生が「米蔵の火事」と結びついている点です。1698年(元禄11年)に矢ノ倉の米蔵が焼け、その機能が築地へ移されました。空いた跡地が町地として開かれ、新しい町が生まれたとされています。災いがきっかけで、にぎやかな下町の一角ができあがったわけです。
日本橋米沢町に関するよくある質問
- 日本橋米沢町と日本橋両国はどう違いますか?
- どちらも両国橋の西詰一帯にあった隣り合う旧町名で、後にまとめて東日本橋になりました。由来は異なり、米沢町は米蔵の跡地、両国は両国橋の名にちなむとされています。
- 日本橋米沢町は、相撲で有名な両国と関係がありますか?
- 直接の関係はありません。米沢町は両国橋の西側(中央区側)にあった町で、相撲の国技館がある両国は川の東側(墨田区)にあたります。
