日本橋魚河岸とは

日本橋魚河岸とは、江戸時代から大正時代まで日本橋川の北岸(現在の中央区日本橋室町一丁目あたり)にあった、江戸最大の魚市場のことです。将軍のお膝元の台所として約300年にぎわいましたが、1923年(大正12年)の関東大震災を境に築地へ移り、その役割は今、豊洲市場が引き継いでいます。日本橋に魚市場はもう残っていません

日本橋魚河岸から築地市場、豊洲市場への移転の流れを示すタイムライン図
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日本橋魚河岸の歴史と「河岸」の意味

魚河岸の起こりは、徳川家康の江戸入りまでさかのぼります。1590年(天正18年)、家康は摂津国(今の大阪府のあたり)の佃村から腕利きの漁師たちを江戸へ招き、日本橋の本小田原町に魚を商う土地を与えました。漁師たちは白魚などを将軍家へ納める一方、その残りを日本橋で売ることを許され、これが魚河岸の始まりとされています。

「河岸(かし)」とは、川沿いの荷揚げ場のこと。日本橋川の北岸に魚を積んだ船がびっしりと着き、板を渡した台の上に魚を並べて売ったことから「魚河岸」と呼ばれました。仕入れも売りさばきも川の水運が頼りだった時代、橋のたもとは物が集まる絶好の立地だったのです。

江戸の人口がふくらむにつれ、魚河岸も大きく育ちます。早朝から威勢のいい掛け声が飛び交い、一日に千両もの金が動いたといわれるほどのにぎわいで、「江戸の台所」として町の食を支え続けました。この活気は、明治・大正と東京の市場になっても変わりませんでした。

築地市場・豊洲市場との関係(魚河岸は今もある?)

「魚河岸」と聞くと、今も日本橋に市場があるように思うかもしれません。けれど、それは正しくありません。1923年(大正12年)9月の関東大震災で日本橋の魚河岸は焼け落ち、復興にあたって市場は手狭な日本橋を離れることになりました。

移った先が築地です。1935年(昭和10年)に築地市場として新たに開場し、さらに2018年(平成30年)、築地市場は豊洲市場へと移りました。つまり、今ニュースで耳にする「築地」「豊洲」の魚市場は、もとをたどれば日本橋の魚河岸にたどり着きます

ややこしいのは、「魚河岸」という言葉が今でも築地や豊洲をさして使われること。日本橋の魚河岸そのものは、約100年前に役目を終えています。日本橋エリアで「魚河岸」と出てきたら、それは江戸から大正の歴史の話だと考えてよいでしょう。

乙姫広場に残る魚河岸の名残

市場は去りましたが、その記憶は今も日本橋のたもとに残っています。日本橋の北詰・東側にある乙姫(おとひめ)の広場(中央区日本橋室町1-8)に、魚河岸があったことを伝える乙姫像と「日本橋魚市場発祥之地」の碑が建っているのです。この碑は、日本橋から築地へ移っていった魚市場の関係者たちの手で建てられたと伝わります。

竜宮城の乙姫をかたどった像は、海の幸への感謝を込めたもの。日本橋三越本店福徳神社コレド室町といった今の室町エリアを歩くついでに立ち寄れば、きらびやかな商業地の足元に眠る、もう一つの日本橋の顔に出会えます。橋の上に立って川面を眺めれば、かつてここに魚を運ぶ船が連なっていた光景を想像できるはずです。

Topic将軍に納めた魚の「余り」から、江戸一番の市場が生まれた?

魚河岸の始まりには、一人の漁師の物語が伝わります。摂津国佃村の名主森孫右衛門(もりまごえもん)は、家康が江戸へ入る際に漁師仲間を率いて移り住み、白魚などを将軍家へ献上する特権を得ました。やがてその献上した魚の「余り」を一般に売る許可をもらったのが、日本橋魚河岸の起こりとされています。将軍家の食卓のおこぼれが、江戸じゅうの食を支える大市場に育ったというわけです。漁師たちが暮らした「佃」の地名や、保存食の佃煮も、同じ佃村の人々に由来すると伝わります。

日本橋魚河岸に関するよくある質問

地名の「佃」や佃煮は、魚河岸と関係がありますか?
深い関わりがあります。魚河岸を開いた佃村の漁師たちが住みついた島が「佃島」となり、彼らが小魚を甘辛く煮て保存食にしたものが「佃煮」の名のもとになったと伝わります。
乙姫の像は、なぜ魚河岸の跡に立っているのですか?
竜宮城に住む乙姫が海の幸の象徴であることにちなみ、長く江戸の食を支えた市場への感謝を込めて建てられたものです。広場の名も、この像にちなんで「乙姫の広場」と呼ばれています。

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