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用語 神社仏閣

福徳神社とは

福徳神社とは、東京都中央区日本橋室町二丁目にある稲荷神社で、別名を芽吹稲荷といいます。主祭神は五穀をつかさどる倉稲魂命。江戸時代に幕府から富くじの興行を許された歴史にちなみ、いまは宝くじやチケットの当選を願う参拝者も多く訪れます。コレド室町に隣接し、買い物や食事のついでに立ち寄れる社です。

福徳神社の由緒・ご利益・周辺を一目で理解できる概念図

別名:芽吹稲荷(めぶきいなり)

福徳神社の歴史と社名の由来

創祀の年ははっきりしませんが、神社に伝わる言い伝えでは、貞観年間(859〜877年)にはすでに鎮座していたといいます。いまの日本橋室町二丁目付近は、昔は武蔵国豊島郡福徳村と伝えられ、はじめは「稲荷の祠」、のちに村名をとって「福徳稲荷」と呼ばれるようになりました。

土地の人は、神社の森を「稲荷の森」、森の一端に建てられていた石造りの一里塚を「稲荷の一里塚」と呼んで親しんでいたそうです。この一里塚は、御由緒によると明暦3年(1657年)正月の大地震で崩れてしまいました。

徳川家康は天正18年(1590年)8月に初めて参詣し、その後も数度足を運んだといいます。元和5年(1619年)には江戸城内の弁天宮があわせてまつられ、社地が333坪余と定められました。

明治7年(1874年)に村社となり、社号が福徳稲荷から福徳神社へ改まります。関東大震災後の区画整理や戦災を経て、商家の町並みがビル街へと移り変わるなかで、お社はビルの屋上へ移りながら守られてきました。再開発による建て替えに伴う4度の遷座を経て、2014年(平成26年)10月に、いまの地上の新社殿が竣工しています。

富くじの歴史と、日本橋七福神との違い

くじのご利益で知られる理由は、江戸時代の富くじにあります。神社の公式サイトによると、福徳神社は火事で焼けた社殿の造営を願い出るたびに、幕府から勧化(広く寄付を集めること)を許され、少なくとも文政・天保期の勧化は、幕府公認の富くじ「御免富」でした。福徳神社と富くじの関係は、いまの当選祈願へとつながっています。

まぎらわしいのが、日本橋七福神との関係です。福徳神社には、大黒様として知られる大己貴命や、えびす様ともいわれる少名彦名命が相殿にまつられ、江戸時代前後には弁財天もあわせまつられました。それでも、日本橋七福神の札所ではありません。日本橋七福神の公式サイトに並ぶのは、水天宮・小網神社・松島神社・椙森神社・笠間稲荷神社・末廣神社・茶ノ木神社の7社です。

もう一つ押さえておきたいのが、鎮座の古さと社殿の新しさ。言い伝えは平安時代までさかのぼりますが、いまの社殿は2014年に建てられたものです。古い由緒と新しい建物が同居しているのは、再開発の進む日本橋室町らしいところでしょう。

訪れ方と、福徳の森

最寄りは東京メトロ銀座線・半蔵門線の三越前駅で、A6番出口から徒歩1分。JR総武快速線の新日本橋駅からも歩けます。参拝は24時間でき、授与所の受付は10時から17時までです。

境内で目を引くのが、夫婦の狐をかたどった神狐絵馬。裏に願いを書いて2つに割り、片方を境内の絵馬掛けに結んで、もう片方を持ち帰ります。願いがかなったらお礼参りで持ち帰った神狐を結び、夫婦に戻してあげる、という決まりです。

社殿の隣には、2016年9月28日に森開きした広場「福徳の森」が広がり、薬の神をまつる薬祖神社も森の一角へ移ってきました。参拝のあとに、緑の中でひと息つくのもよいでしょう。

日本橋トピック♪「芽吹稲荷」という別名は、どこから来た?

慶長19年(1614年)正月28日、二代将軍の徳川秀忠がこの社に参詣しました。そのとき目にしたのが、この社に古くから伝わる、皮のついたままの椚(くぬぎ)の鳥居に、春の若芽が萌え出ている姿。これにちなんで秀忠が名づけたのが、別名「芽吹稲荷」だと御由緒は伝えています。いまの「芽吹き守」や「芽吹き絵馬」もこの故事にちなむもので、新しいことを始めるときの願いを込める授与品です。

福徳神社に関するよくある質問

「芽吹稲荷」と「福徳神社」は別の神社ですか?
同じ神社です。福徳神社の別名が芽吹稲荷で、神社の公式サイトでも「福徳神社(芽吹稲荷)」と併せて表記されています。
福徳神社の御朱印は、御朱印帳に書いてもらえますか?
神社の案内では、御朱印は書き置き(紙)のみの授与で、御朱印帳への書き込みは行っていません。初穂料は500円、受付は10時から17時です。
車いすやベビーカーでも参拝できますか?
神社の案内では、境内はバリアフリーに対応しており、エレベーターの設置など、車いすやベビーカーの利用者にも配慮した造りになっています。

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