コンテンツへスキップ

妻木頼黄とは

妻木頼黄とは、明治から大正にかけて活躍した建築家で、明治44年(1911年)に完成した今の日本橋の装飾のデザインをまとめた人物です。

大蔵省の官庁建築を率いた建築家

妻木頼黄は安政6年12月(西暦では1860年1月)、江戸の旗本の家に生まれました。1878年に工部大学校の造家学科へ入学し、1882年に中退してアメリカへ。コーネル大学を1884年に卒業しています。その後ドイツへ留学し、エンデ・ベックマン事務所で学びました。

その後は大蔵省に移り、1905年には大蔵省臨時建築部長に。官庁建築の主導者として国会議事堂などの建設を指導し、その設計をめぐっては辰野金吾と対立しました。おもな作品は東京府庁舎(1894年)、東京商工会議所(1899年)、横浜正金銀行本店(1904年)など。

日本橋では「装飾顧問」として

今の石造りの日本橋を架けた旧東京市は、橋の装飾について、妻木に装飾顧問としてデザインを委嘱しました。妻木は材料に青銅を使い、西洋的なデザインを主体としながら、日本的なモチーフも取り入れた和洋折衷の意匠にまとめています。

取り違えやすいのが、橋を飾る麒麟と獅子の像との関係です。像を彫ったのは彫刻家の渡辺長男らで、妻木は橋全体の装飾デザインをまとめる立場でした。

日本橋トピック♪日本橋の柱に、一里塚の松と榎

東京都公文書館の解説によると、妻木の意匠には、装飾柱の模様に一里塚を表す松や榎木も取り入れられています。一里塚は、街道に1里(約3.9キロ)ごとに築かれた塚。榎や松が植えられ、旅人の道しるべになりました。江戸時代初めの『慶長見聞集』(1614年)には「江城日本橋を一里塚のもとと定め」とあり、日本橋は一里塚を数える起点でした。道のはじまりの橋に、道しるべの木を描き込んだデザインだったのです。

妻木頼黄に関するよくある質問

「妻木頼黄」は何と読みますか?
「つまきよりなか」と読みます。
妻木頼黄の建物は、今でも見られますか?
横浜正金銀行本店(1904年)が、今は神奈川県立歴史博物館として残り、国の重要文化財に指定されています。

妻木頼黄に関連する記事