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最上徳内とは

最上徳内とは、江戸後期に蝦夷地を8回調査し、北方の地理やアイヌ文化を記録した探検家です。文政9年(1826年)に来日中のドイツ人医師と江戸で交流し、長崎屋を舞台に広がった日本橋の国際的な知識交換へつながる存在といえるでしょう。

測量の力で蝦夷地を8回調査

徳内は出羽国楯岡村、現在の山形県村山市の出身です。江戸で医学、数学、天文学、測量術、航海術などを学び、天明5年(1785年)から蝦夷地の調査に参加しました。生涯で8回にわたり蝦夷地へ渡ったとされ、地理だけでなく、気候や産物、アイヌの人々の暮らしも調べています。

調査成果は『蝦夷草紙』などにまとめられました。当時の北方政策を考える材料になる一方、徳内が現地で見聞した文化を記録した資料でもあります。測量技術と現地観察の両方を用いた点が、徳内の活動の特色といえるでしょう。

江戸で北方の知識を交換

1826年、徳内はオランダ商館長の江戸参府に同行したドイツ人医師と出会いました。二人は測量や北方地域について語り合い、徳内は蝦夷地・樺太方面の地図を貸しています。さらに、アイヌ語辞書の共同作成にも取り組んだと伝わります。

江戸参府一行の定宿だった長崎屋には、西洋の情報を求める医師や学者が集まりました。徳内との交流も、海の向こうから来た研究者と日本側の実地知識が出会った、江戸後期らしい学術交流の一例といえるでしょう。

日本橋トピック♪北方探検家の姿がヨーロッパにも伝わった

江戸での交流では、同行した長崎の絵師が徳内の肖像を描きました。その姿は、日本を紹介する書物『NIPPON』にも収められています。地図や辞書だけでなく、人物の姿まで絵を通じて海外へ伝わった証し。

最上徳内に関するよくある質問

最上徳内は医師ですか?
医学も学びましたが、主に蝦夷地の調査と北方研究で知られる人物です。数学、天文学、測量術、航海術も修めました。
最上徳内の出身地に記念館はありますか?
出身地の山形県村山市に最上徳内記念館があります。徳内の著書や北方調査に関する資料を紹介する施設です。

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