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江戸橋広小路とは

江戸橋広小路とは、明暦の大火後、江戸橋南詰に設けられた防火のための空き地です。読みは「えどばしひろこうじ」。やがて市場や仮設店舗が集まり、江戸有数の盛り場になりました。

火除地から市場と商いの場へ

『日本歴史地名大系』によると、この一帯は明暦3年(1657年)の大火より前は日本橋四日市町のうちで、大火のあと火除地を設けるための御用地になりました。国立歴史民俗博物館の解説では、幕府は町を移して舟入堀を埋め立て、防火のための空き地とし、川沿いに土手を設けます。ところが直後には野菜などの市場を許可。さらに元禄から享保年間(1688〜1736年)には、土手の蔵や住居利用、床店と呼ばれる仮設店舗について瓦葺きが許され、恒常的な施設が建ちました。瓦屋根が認められるとは、仮設のはずの空き地に建物が居座ることを幕府が認めたということです。

床店と娯楽が並ぶ盛り場

広小路が広がっていたのは、江戸橋の南詰から本材木町一丁目・青物町元四日市町にかけての一帯。国立歴史民俗博物館の解説では、そこに約120軒の床店があり、明和4年(1767年)には大半が小間物商売でした。ほかに占いや煮売茶屋もあり、翁稲荷の隣には講釈場と5棟の楊弓場。楊弓場は小型の弓で的を射て遊ぶ場所です。明治2年(1869年)にこの地が町へ編入されると、広場としての性格は薄れていきました

日本橋トピック♪歯が痛くなったら、この稲荷へ

広小路に人を呼んだのは、店や見世物だけではありません。国立歴史民俗博物館の解説によれば、ここにあった翁稲荷は歯痛に効くとして参詣客を集めていました。麻酔も歯科医院もない時代、歯の痛みは神仏に頼るほかない苦しみ。その参詣客が講釈場や楊弓場の客にもなり、火除けの空き地はいっそうにぎわったのでしょう。

江戸橋広小路に関するよくある質問

江戸橋広小路はなぜ造られたのですか?
明暦の大火後に舟入堀を埋め、防火のための空き地として設けられました。その後は市場や床店が集まり、盛り場へ変化しました。
「広小路」とは江戸橋だけの呼び名ですか?
いいえ。広小路は延焼を防ぐ火除地として、明暦の大火後に江戸市中の各所へ造られた幅の広い街路や空き地の呼び方です。上野広小路もその一つで、江戸橋広小路は江戸橋南詰に設けられた一帯を指します。

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