五街道とは
五街道とは、江戸時代に幕府が整備した五つの主要な街道、東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道の総称です。いずれも江戸の日本橋を起点とし、全国の主要な土地へとつながりました。今でいう国道網の0キロ地点が日本橋で、そこから五本の道が放射状に延びていた、と考えると分かりやすいでしょう。現在の国道にも、その道筋は受け継がれています。

五街道の成り立ちと、日本橋が起点になった理由
五街道の整備が始まったのは、徳川家康が天下を治め始めた頃のことです。1601年(慶長6年)に東海道で宿場を置く制度が整えられ、2代将軍秀忠の代に本格化しました。そして1604年(慶長9年)、日本橋が五街道の正式な起点と定められたのです。
街道沿いには一里(約4キロ)ごとに「一里塚」が築かれ、旅人の距離の目安になりました。1659年(万治2年)からは「道中奉行」という専門の役所が置かれ、宿場や人馬、治安までを取り仕切るようになります。五つの街道がすべて整うまでには、江戸時代を通じて長い年月がかかりました。
五街道は、もともと大名が江戸と領地を行き来する参勤交代のために整えられた道でした。やがて庶民の旅も盛んになり、お伊勢参りや物見遊山に出かける人々でにぎわうようになります。宿場には大名が泊まる本陣や、旅人向けの旅籠が立ち並びました。江戸の中心でにぎわう日本橋は、全国へ人や物を送り出す出発点にふさわしい場所だったのでしょう。
五つの街道はどこへ向かう?似た名前の区別
五つの行き先を、ざっと整理してみましょう。
- 東海道:太平洋沿いを通って京都へ。
- 中山道:内陸の山あいを抜け、草津で東海道に合流。
- 日光街道:将軍家ゆかりの日光へ。
- 奥州街道:東北の白河方面へ。
- 甲州街道:甲府を経て、下諏訪で中山道に合流。
東海道と中山道は、どちらも江戸と京都を結ぶ道でしたが、海沿いを行くか山あいを抜けるかで道筋が分かれていました。また、日光・奥州・甲州の三つは、正式には「街道」ではなく「道中(どうちゅう)」と呼ばれていたのが本来の名です。
東海道は道のりが短く人気でしたが、大井川などの大きな川には橋がなく、増水で何日も足止めされることがありました。川越えの心配が少ない中山道は、旅の予定を立てやすい道として選ばれることもあったのです。
五街道のほかにも、伊勢へ向かう参宮街道など「脇往還(わきおうかん)」と呼ばれる主要道が各地に枝分かれしていました。
街道の起点・日本橋を歩く
五街道の名残を感じたいなら、まずは起点の日本橋へ足を運んでみましょう。橋の中央の路面には日本国道路元標がはめ込まれ、ここが今も日本の道路の起点。橋のたもとの「元標の広場」には、かつて使われていた標識が移されて今も立っています。
起点の日本橋から南西へ向かう道は、かつての東海道にあたる今の国道15号。京橋・新橋と進めば、最初の宿場だった品川宿の名残にも出会えます。
五街道の道筋は、姿を変えて今の国道に受け継がれました。旧東海道は国道1号、旧日光・奥州街道は国道4号、旧中山道は国道17号、旧甲州街道は国道20号となり、いずれも日本橋を起点に全国へ延びています。江戸の旅人が歩いた道を、今は車で走っているわけです。
Topicなぜ今も、道路の起点は日本橋なの?
江戸幕府が五街道の起点と定めた日本橋を、明治政府はそのまま国道の起点として受け継ぎました。だから現在も、日本橋は日本の主要な国道が始まる場所。橋の中央にある日本国道路元標の文字は、昭和の総理大臣佐藤栄作の筆によるものとされています。江戸から続く「道のはじまり」が、今も同じ場所に刻まれているのです。
五街道に関するよくある質問
- 街道沿いにあった「一里塚」とは何ですか?
- 街道に一里(約4キロ)ごとに築かれた塚です。旅人が距離をはかる目印で、日本橋を基点に数えられました。塚に木が植えられることもありました。
- 街道の「宿場(宿駅)」とはどんな場所ですか?
- 旅人が泊まったり、馬や人足を乗り継いだりした拠点の町です。五街道沿いに置かれ、宿場を中心に町がにぎわいました。東海道の宿場はとくに数多く知られています。
