渋沢栄一とは
渋沢栄一とは、明治・大正期に日本の実業界を率いた実業家で、第一国立銀行をはじめ生涯に約500の企業に関わったといわれ、「日本資本主義の父」と呼ばれた人物です。その足場になったのが、第一国立銀行と東京株式取引所が置かれた日本橋兜町でした。2024年(令和6年)7月3日に発行された新しい一万円札の肖像にもなっています。

農家の生まれから、兜町の銀行へ
渋沢栄一は1840年(天保11年)、いまの埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれました。家業の畑作や藍玉づくり、養蚕を手伝いながら学問を学び、のちに一橋家に仕えて幕臣となります。27歳のときには、将軍・徳川慶喜の弟である徳川昭武に随行してパリの万国博覧会を見学し、ヨーロッパ諸国の実情を見聞しました。
明治維新で帰国すると、静岡に「商法会所」をつくり、明治政府に招かれて大蔵省へ。1873年(明治6年)に大蔵省を辞めて民間の経済人となり、その出発点が第一国立銀行でした。日本銀行によると、第一国立銀行は日本で最初に開業した銀行で、開業の場所はいまの日本橋兜町4-3。渋沢自身もこの年、兜町へ住まいを移しています。ただし最初の肩書は「総監役」で、頭取になるのは1875年(明治8年)のことでした。
兜町から広げた、取引所と会社
1878年(明治11年)5月には、東京証券取引所の前身となる東京株式取引所が生まれます。日本取引所グループは、渋沢栄一・今村清之助・田中平八の3人が中心になって設立したと紹介しています。同じ年の3月には東京商法会議所(いまの東京商工会議所)ができ、38歳の渋沢が初代会頭になりました。
渋沢栄一記念財団の年譜をたどると、抄紙会社(のちの王子製紙)、東京瓦斯会社、東京ホテル(のちの帝国ホテル)、札幌麦酒会社など、創立に関わった会社の名が次々に並びます。関わった企業は生涯に約500、支援した教育機関・社会公共事業は約600といわれます。
その軸にあったのが、渋沢が説き続けた「道徳経済合一説」です。会社は自分の利益のためだけでなく、国や社会の役に立つものでなければならない、という考え方です。銀行や会社をつくる一方で、教育や福祉などの事業にも力を注ぎ続けました。
間違えやすいポイント
まず名前について。同じ「渋沢」でも、孫の渋沢敬三は別の人物です。敬三も第一銀行を経て1944年に日本銀行総裁となり、戦後は幣原内閣の大蔵大臣を務めた実業家でした。新しい一万円札の顔は、祖父の栄一のほうです。
もう一つは兜町の住まい。1888年(明治21年)に建てた兜町の邸宅は、のちに日本銀行本店や東京駅を設計する辰野金吾の設計でした。ただ、渋沢は1901年(明治34年)に飛鳥山(いまの東京都北区)へ移り、兜町の建物は「渋沢事務所」として使われます。晩年まで兜町に住んでいたわけではありません。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では、渋沢はこの事務所の書斎で打ち合わせの最中に激しい揺れに遭い、崩れる建物から無事に逃れました。その夜の火事で、事務所は全焼しています。
いまも会える渋沢栄一
いちばん身近なのは、2024年7月3日に発行された新しい一万円札でしょう。お札のデザインが新しくなったのは20年ぶりです。裏面に描かれた東京駅丸の内駅舎は、兜町の渋沢邸を設計した辰野金吾が、のちに手がけた建物。表の肖像と裏の建物が、兜町を通じてつながっているわけです。
街で足跡をたどるなら、日本橋兜町へ。第一国立銀行が開業した場所では、いまそこに建つみずほ銀行の支店の壁に「銀行発祥の地」の碑がはめ込まれています。兜町の邸宅の跡には、1928年(昭和3年)に東京株式取引所が建てた「日証館」が立ち、同じ兜町には東京証券取引所もあります。お札の顔として知るだけでなく、仕事の跡を街角でたどれるのが、日本橋兜町ならではの楽しみ方です。
日本橋トピック♪お札に朱で書き足された「頭取 澁澤栄一」
第一国立銀行が発行した国立銀行紙幣には、頭取の名前が刷られていました。ところが開業当初の頭取は渋沢ではなく、出資者の小野善助と三井八郎右衛門。1874年(明治7年)に小野組が破綻し、翌1875年に渋沢が頭取に就くと、紙幣に刷られた頭取名には、あとから朱で「澁澤栄一」の名が書き加えられました。日本銀行の貨幣博物館が所蔵する紙幣に、その跡が残っています。約150年後、その渋沢の顔が一万円札に刷られることになるのです。
渋沢栄一に関するよくある質問
- 2024年より前の一万円札は誰の肖像でしたか?
- 福沢諭吉です。政府広報オンラインによると、一万円札の肖像は1984年(昭和59年)の発行から40年間、福沢諭吉でした。2024年7月3日に発行された新しい一万円札で、渋沢栄一に替わりました。
- 渋沢栄一はいつ亡くなりましたか?
- 1931年(昭和6年)11月11日です。渋沢栄一記念財団の略歴によると、91歳で生涯を閉じました。
- 渋沢栄一が実業界を退いたのはいつですか?
- 1916年(大正5年)です。第一国立銀行(のちの第一銀行)の頭取は1875年から1916年まで務め、この年に実業界の第一線から退きました。以後は教育や社会、文化の事業に力を注いでいます。

