日本橋兜町遺跡とは
日本橋兜町遺跡とは、日本橋兜町にある江戸時代を中心とした遺跡で、区立阪本小学校・阪本幼稚園の建て替えに伴って発掘調査された場所です。平成30年(2018年)の調査で見つかったのは、肥後国熊本藩細川家の下屋敷に関係する品々でした。
水運に恵まれた土地の屋敷跡
遺跡は五街道の基点である日本橋から南東へ約0.5キロメートル、隅田川から西へ約1キロメートルの位置にあり、すぐ西には江戸橋から八丁堀まで南北に貫く楓川が流れていました。江戸初期の埋め立てのあと、5千石の旗本小濱民部、6千石の旗本松平家の屋敷地を経て、天保13年(1842年)に肥後国熊本藩54万石余の細川家の下屋敷となります。広さは2,858坪余、いまの単位で約9,430平方メートル以上。
焼土に埋もれた庭園の池から
特徴的な出土は、幕末頃の池の跡からでした。東西29.3メートル、南北20.9メートルの遠浅の池には、北東から上水の木樋が注いでいたといいます。細川家の家紋を施した鬼瓦や軒丸瓦も出たことから、庭園の一部と考えられる池です。その池が全体を焼土で埋めるように廃棄されており、火災の後始末で一気に埋め立てられたとみられています。出土遺物は総点数22万9,731点、重量にして約35.7トン。このうち肥後国産陶磁器38点と細川家の家紋瓦3点、計41点が中央区民有形文化財に登録されました。遺跡全体ではなく、選ばれた出土品が登録対象である点を分けて捉えると正確でしょう。
日本橋トピック♪殿様の国元の焼き物は、盛りを過ぎた姿だった
登録された磁器の五寸皿は、高台の内側に「肥後宇土製」の銘があり、熊本藩の網田焼と分かる品でした。網田焼は寛政10年(1798年)に藩の窯となって精緻な磁器を焼きましたが、文政5年(1822年)に御用の発注が止まり、民窯になると材料や資金の制約から品質を落としていきます。中央区の資料はこの皿を「藩の保護が途切れて以降の製品」と見ています。それでも見込みには五弁花文が風車のように描かれ、独自の装飾が認められるとのこと。江戸ではほかにほとんど出土例のない肥後国産の器が、盛りを過ぎた姿で下屋敷から出てきたわけです。
日本橋兜町遺跡に関するよくある質問
- 日本橋兜町遺跡の登録文化財はどこにありますか?
- 中央区公式ページの所在地は、新富一丁目13番14号の中央区立郷土資料館です。現地での展示状況は、来館前に同館の案内を確認してください。
- 発掘調査はいつ、どのくらいの範囲で行われたのですか?
- 平成30年(2018年)4月から6月にかけて、日本橋兜町15番18号の約1,644平方メートルで実施されました。区立阪本小学校・阪本幼稚園の建て替えに伴う調査です。

