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檜物町会所屋敷とは

檜物町会所屋敷とは、外堀と上槙町の間にあった旧地名です。読みは「ひものちょうかいしょやしき」。現在の中央区八重洲一丁目につながる、江戸時代の土地の呼び名です。

外堀に面した片側町

『日本歴史地名大系』は、檜物町会所屋敷を檜物町の南にある片側町と説明しています。西は外堀、東は上槙町会所屋敷(変遷表でいう上槇町新道会所屋敷)、南は上槙町に接する位置。安永3年(1774年)の小間附町鑑には「京間六間三尺」と記録され、公役金を負担する町地だったことが分かります。

上槇町にまとまり、八重洲へ

中央区立図書館の町名変遷表では、慶応3年(1867年)欄の上槇町・上槇町新道会所屋敷・檜物町会所屋敷の3つがひとつに括られ、明治4年(1871年)6月欄の上槇町にまとまります。後に呉服橋と通へ分かれ、現町名の八重洲日本橋へつながる系譜です。史料が示す現在地名は八重洲一丁目です。ただし、旧町域と現在の街区は、一枚のパズルのように重なるものではありません

日本橋トピック♪近くの三か所は「三会所」と呼ばれた

江戸東京博物館の研究報告が引く『御府内備考』によると、幕府医師の名に由来する道寿屋敷、幕府呉服所に関わる三島屋敷、そして檜物町会所屋敷は、まとめて「三会所」と呼ばれました。現在の八重洲一丁目周辺に、このような屋敷地のまとまりがあったことが分かります。

檜物町会所屋敷に関するよくある質問

「屋敷」という名前なら、大名の一軒家だったのですか?
確認した地名資料は、大名屋敷とは説明せず、外堀に面して公役金を負担した片側町として記録しています。字面だけで一つの建物と考えないほうが安全です。
檜物町会所屋敷は、明治以降も町名として残りましたか?
中央区立図書館の変遷表では、明治4年6月欄で上槇町の中に組み込まれています。そのため、檜物町会所屋敷の名は独立した町名としては残りませんでした。

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