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土生玄碩とは

土生玄碩とは、江戸後期に幕府の奥医師を務め、西洋の眼科医術を学んだ眼科医です。文政9年(1826年)、日本橋長崎屋を拠点とする江戸参府一行と交流し、瞳を開く薬の製法を得たことが、のちの事件へつながったといえるでしょう。

広島藩医から幕府の奥医師へ

玄碩が生まれたのは、宝暦12年(1762年)の安芸国。京都で学んだのち、眼科医として経験を積みました。享和3年(1803年)に広島藩医となり、文化7年(1810年)には幕府の奥医師、文化13年(1816年)には法眼に進んでいます。

当時の眼科診療では、瞳孔を開いて目の内部を診る技術が注目されていました。玄碩はより進んだ西洋の治療法を取り入れようとした医師であり、薬の製法を求めた背景にもその熱意がうかがえるでしょう。

瞳を開く薬とシーボルト事件

1826年の交流で、玄碩は瞳孔を開く薬の製法を入手しました。その謝礼として贈ったのが、国外への持ち出しを禁じられていた葵の紋付きの衣服です。文政11年(1828年)の事件でこの交換が問題となり、玄碩は奥医師を解任され、投獄されました。

玄碩は天保8年(1837年)に赦免されます。西洋医学を取り入れようとした行動は医療の進歩につながる一方、当時の厳しい海外交流の制限に触れる危険も伴っていました。

墓が伝える晩年の足跡

玄碩は嘉永元年(1848年)に亡くなりました。墓は築地本願寺の境内にあり、墓石「桑翁土生君之墓」は東京都指定旧跡として中央区が紹介しています。日本橋で始まった医学交流と、その後の処分・赦免までをたどれる貴重な史跡。

日本橋トピック♪赦免のきっかけは息子の眼科治療

投獄後に玄碩が赦免された背景には、息子の玄昌が行った眼科治療がありました。玄昌が第12代将軍・徳川家慶の眼病を治療した功により、父・玄碩の赦免につながったという経緯です。

土生玄碩に関するよくある質問

土生玄碩はなぜ処分されたのですか?
西洋人から瞳孔を開く薬の製法を教わった謝礼として、国外持ち出し禁止の葵の紋付き衣服を贈ったことが問題となったためです。
土生玄碩の墓は日本橋にありますか?
いいえ。墓所は日本橋ではなく、中央区築地の築地本願寺境内にあります。墓石は東京都指定旧跡で、現地には顕彰碑も立っています。

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