日本橋水天宮は、安産や子授けのご利益があると言われています。
日本橋の蛎殻町に鎮座しており、総本山は福岡県久留米市の「全国総本宮水天宮」です。
日本橋水天宮について調べてみると、200年以上前から歴史が続いていることが分かりました。
さらに全国総本宮水天宮の始まりは、800年以上前のことなんだとか…!
この記事では、そんな水天宮の名前の由来や歴史について紹介します!
近年行われた建て替えについても調べたので、ぜひ最後までお読みください。
日本橋水天宮の名前の由来
日本橋水天宮の名前は、福岡県久留米市にある「全国総本宮水天宮」に由来します。
全国総本宮水天宮は、元々「尼御前神社」と呼ばれていました。
尼御前神社の名前の由来は、平清盛の娘である平徳子に仕えていた「按察使局伊勢(あぜちのつぼねいせ)」です。
伊勢は、1185年の壇ノ浦の戦いで平家が破れたあと、千歳川のあたりにある「鷺野ヶ原(さぎのがはら)」という場所に逃れてきました。
千歳川は、熊本・大分・福岡・佐賀の4県を流れる大きな川で、現在は筑後川と呼ばれています。
1190年、伊勢は川のほとりに小さな社を建てて、以下の3名を祀ったと言われています。
・平時子(平清盛の妻): 壇ノ浦の戦いに破れ、海に身を投げた
・平徳子(平時子と平清盛の娘): 時子と共に入水したが、源氏により助けられた
・安徳天皇(平徳子の幼い息子): 祖母である時子に抱えられて入水した
そして伊勢は尼となり、千代という名前に変えました。
千代の祈祷は効果があるという噂が広まり、小さな社は「尼御前神社」として多くの人から信仰されるようになったのです。
尼御前神社は、千代の養子である平右忠や、その後の子孫によって引き継がれました。
千歳川は戦場になることも多かったため、何度も社を移動させ、福岡県久留米市のあたりに行き着いたそうです。
そして1650年、久留米藩の2代目藩主である「有馬忠頼(ありまただより)」は、城下の広大な土地を尼御前神社に寄付します。
忠頼は小さな尼御前神社に社殿を建て、水天宮と改名しました。
水天宮と呼ばれるようになったのは、江戸時代に入ってからなのです!
日本橋水天宮の歴史について
日本橋水天宮の始まりは、江戸時代後期の1818年です。
久留米藩の9代目藩主である「有馬頼徳(ありまよりのり)」は、参勤交代の際に江戸でも水天宮をお参りできるように、水天宮を江戸芝赤羽橋にある屋敷に分祀しました。
江戸芝赤羽橋は現在の港区三田あたりで、分祀とは神様を別の場所に分けて祀ることです。
江戸芝赤羽橋に分祀された水天宮は、 1871年に青山に移転され、翌年には日本橋蛎殻町に移転されます。
蛎殻町に移ってからは、現在まで日本橋水天宮として同じ場所に鎮座し続けています。
日本橋水天宮は1923年の関東大震災で被災しましたが、再建されました。
再建を祝う祭も行われたそうで、人々に愛されてきたことが分かります!
2013年までは朱塗りの社殿でしたが、3年間の建て替えが行われ、2016年4月からは新社殿となっています。
▼日本橋水天宮の新社殿
引用元:水天宮ホームページ
建て替えによって、日本橋水天宮はバリアフリー対応のスロープや待合室が新設され、訪れる人々にとってさらに快適な場所となりました。
これにより、多くのかたが安心して参拝できるようになりました!
▼新たに設置されたスロープ
引用元:水天宮ホームページ
日本橋水天宮では2024年も特別な行事やイベントが行われています。
毎年恒例の「初詣」や「安産祈願祭」をはじめ、多くの参拝者で賑わっており、「戌の日」には、安産祈願を目的とした家族連れが多く訪れ、賑やかな雰囲気が広がります。
まとめ
日本橋水天宮は、江戸時代から200年以上にわたって、江戸〜東京を見守り続けてきました。
時代に合わせて変化していく水天宮の歴史を感じながら、お参りしてみてはいかがでしょうか♪
お参りに行く際には、日本橋水天宮のご利益について書いた日本橋水天宮(神社)のご利益やお守り情報|返納方法もという記事も必見です!
また安産祈願の場合は「戌の日」をオススメします!
日本橋水天宮の戌の日について書いた日本橋水天宮”戌の日”は誰と行くべき?安産祈祷の料金もまとめましたという記事も、ぜひ参考にしてください。
それでは、最後までお読みいただきありがとうございました!