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喜多川歌麿とは

喜多川歌麿とは、江戸時代後期に活躍し、女性の表情やしぐさを大きく捉えた美人大首絵で知られる浮世絵師です。1806年に没し、通油町(現在の日本橋大伝馬町)の版元・蔦屋重三郎を通じてこの地域とつながります。

日本橋の版元と磨いた表現

蔦屋重三郎天明3年(1783年)に通油町へ進出し、耕書堂を江戸出版の拠点に育てました。歌麿は黄表紙の挿絵や狂歌絵本を手がけ、『画本虫撰』は天明8年(1788年)に耕書堂から出版されています。出版の場所は現在、蔦屋重三郎「耕書堂」跡の説明板でたどれます。この地域との確かな接点は、居住地ではなくこの出版関係です。

その後、蔦重は歌麿の美人画を出版します。全身画が主流だった時代に、上半身を大きく配した大首絵。目元や口元の小さな違いまで見やすくする新鮮な画面でした。華やかな装いだけでなく、ふとした仕草から人物の気分まで想像できるのが見どころでしょう。

美人画だけではない歌麿

歌麿の画業を追うと、一枚の錦絵だけでなく、本の中で絵と言葉を組み合わせた仕事も見えてくるでしょう。『画本虫撰』『潮干のつと』『百千鳥』は、虫・貝・鳥の絵に狂歌を重ねた狂歌絵本の三部作。「美人画だけの絵師」と覚えると、出版チームの中で広がった歌麿の表現を見落とします。

日本橋トピック♪虫や鳥を描いた歌麿を知っている?

歌麿と蔦屋重三郎が組んだ狂歌絵本は、絵・狂歌・彫り・摺りを一冊に束ねた豪華な出版物でした。なかでも『画本虫撰』は、生き物の繊細な描写が主役。人気の美人画が生まれる前に、歌麿の観察力は小さな虫や鳥にも向けられていました。

喜多川歌麿に関するよくある質問

喜多川歌麿は日本橋に住んでいたのですか?
日本橋との確かな接点は、通油町の版元・蔦屋重三郎が歌麿の狂歌絵本や美人画を出版したことです。出版の拠点と居住地は同じ意味ではありません。
喜多川歌麿は美人画だけを描いたのですか?
美人画以外にも、『画本虫撰』などの狂歌絵本で虫・貝・鳥を精密に描いています。絵と狂歌を一緒に味わう本の仕事も、歌麿の大切な画業です。

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