歌川(安藤)広重住居跡とは
歌川(安藤)広重住居跡とは、江戸後期の浮世絵師歌川広重が晩年を過ごした住まいの跡で、現在の東京都中央区京橋にあります。江戸時代の大鋸町(おがちょう)にあたる場所で、今は通り沿いに説明板が立っています。広重ゆかりの地ですが、日本橋ではなく隣の京橋にある点は覚えておきたいところ。
目次
広重が晩年を過ごした「大鋸町」
広重(1797〜1858年)がこの大鋸町に移り住んだのは嘉永2年(1849年)のこと。亡くなる安政5年(1858年)までの約10年を、ここで暮らしました。
この時期に手がけた代表作が、江戸の名所を描いた「名所江戸百景」(1856〜1858年)です。広重の死後も刊行が続き、弟子の二代広重の作なども加えて全119図にまとめられました。なお、出世作の「東海道五十三次」(1833年)は、この家に移るより前の作。大鋸町は広重の“終の住みか”であり、晩年の創作の場だったわけです。
「安藤広重」と「歌川広重」は同じ人
この用語名に「安藤」と「歌川」が両方出てくるのを、不思議に思う方もいるかもしれません。じつはどちらも同じ人物を指します。安藤は本名の姓、歌川は絵師としての号(画家名)。そのため古くは「安藤広重」とも呼ばれてきました。今は号にもとづく「歌川広重」で呼ぶのが一般的です。
Topic広重の隣家は、幕府お抱え絵師「狩野家」の総本家だった
広重の住まいのすぐ隣には、幕府の御用絵師・狩野四家の宗家「中橋狩野家」の屋敷がありました。狩野派は将軍家や大名に仕えた、いわば“公式・格式”の絵師集団。一方の広重が描いた浮世絵は、庶民が楽しむ刷り物でした。立場のまるで違う二つの絵の世界が、京橋の同じ一画でご近所どうしだったというのは、ちょっと面白い取り合わせ。広重は最後にこの狩野家裏の「狩野新道」へ移ったとも伝えられています。
歌川(安藤)広重住居跡に関するよくある質問
- 「大鋸町」は何と読み、どんな由来の地名ですか?
- 「おがちょう」と読みます。大鋸(おが)は材木をひく大きな鋸のことで、木をひく職人(木挽)が集まって住んだ町だったことに由来すると伝わります。
- 「二代広重」とは別の人物ですか?
- 別の人物です。初代の歌川広重が亡くなったあと、その画業を継いだ弟子が二代広重を名乗りました。名所江戸百景には、初代の没後に二代らが加えた絵も含まれています。
