賀茂真淵県居の跡とは
賀茂真淵県居の跡とは、江戸時代中期の国学者・歌人賀茂真淵(かものまぶち)が晩年に暮らした住まい「県居(あがたい)」があった場所の跡で、現在の東京都中央区、日本橋久松町から浜町にかけての一帯(清洲橋通り沿い)にあります。今はビルの壁に中央区教育委員会の説明板が掛けられ、屋敷そのものは残っていません。
目次
国学者・賀茂真淵と「県居」
賀茂真淵(1697〜1769年)は、京都で荷田春満に学んだのち江戸へ移り、万葉集などの古典研究を通じて国学を大きく育てた人物です。国学とは、日本古来の文学や精神を当時の学問の目で読み解こうとした学びのこと。
明和元年(1764年)、68歳のころに日本橋浜町へ新居を建て、これを「県居」と名づけました。明和6年(1769年)に亡くなるまでこの地で暮らし、多くの弟子に国学を教えています。
本居宣長の「師」であって弟子ではない
取り違えやすいのが、本居宣長との関係です。真淵と宣長はともに国学を代表する名前ですが、真淵が師、宣長が弟子。真淵の学問が宣長へと受け継がれ、のちの国学が花開いていきました。向きを逆に覚えないようにしたいところ。
もうひとつ、読み方にも注意です。「県居」は「けんきょ」ではなく「あがたい」と読みます。
Topic「県居」は“田舎の住まい”という意味だった
真淵は自著のなかで、賀茂氏の姓(県主=あがたぬし)にちなみ、住む所を「あがたゐ」と呼んだと記し、「あがた」とは田舎の心だと説明しています。にぎやかな江戸の真ん中にいながら、あえて「田舎の住まい」という名を掲げたわけです。やがて弟子たちが真淵を「県居の翁」と慕って呼ぶうち、「県居」は住まいの名であると同時に、真淵その人を指す号にもなっていきました。
賀茂真淵県居の跡に関するよくある質問
- 賀茂真淵県居の跡は、いつから文化財なのですか?
- 大正7年(1918年)に当時の東京府の史跡に指定されました。中央区のなかでも早い時期に指定された史跡のひとつで、その後は東京都の旧跡へと引き継がれています。
- 賀茂真淵は国学の歴史でどんな位置づけの人ですか?
- 荷田春満・本居宣長・平田篤胤とともに「国学四大人(こくがくのうし)」のひとりに数えられます。日本の古典研究を大きく前へ進めた学者として知られています。
