伝馬町牢屋敷跡はなぜ「怖い」と言われるのか?吉田松陰終焉の地・十思公園の歴史も調べてみました。

小伝馬町の十思公園・伝馬町牢屋敷跡の歴史と現在を対比したアイキャッチ図版。慶長年間から明治8年まで約270年間稼働した江戸の牢屋敷跡が、今は地域の公園として息づく場所であることを視覚的に伝えるデザイン。

こんにちは!とーんと♡日本橋編集部です。

「伝馬町牢屋敷跡 怖い」。
そう検索してこのページにたどり着いた方、少しだけお時間をください。

伝馬町牢屋敷跡が「怖い」と感じられる背景は、心霊的な噂や都市伝説というより、史料や案内碑で語られている歴史に目が向くことが多いようです

慶長年間から明治8年(1875年)まで長期間にわたり牢屋敷として機能し、敷地内に刑の執行に関わる場所があったとされること。それがこの場所への「怖い」という印象につながりやすい背景の一つです。

現在の十思公園は、保育園児が走り回り、サラリーマンがランチ休憩に訪れる、ごく普通の公園です。でも公園内に立つ石碑を一枚一枚読んでいくと、吉田松陰がここで処刑されたこと、処刑の合図にあの鐘が使われていたという伝承があること。
そういった事実がじわじわと伝わってきます。
SNSでも「歴史を知ってから行くと、見え方が変わった」といった声が見られます。

この記事では「なぜ怖いのか」を史料・案内に沿って整理したうえで、十思公園内の史跡ガイドや基本情報、散策後の回遊コースまでまとめました。
日本橋エリアの歴史全体に関心のある方にも、ここを起点にしていただけると嬉しいです。

目次

伝馬町牢屋敷跡が「怖い」と言われる4つの背景

伝馬町牢屋敷跡が怖いと言われる4つの背景を整理した図解カード。約270年の稼働規模、牢名主制度による過酷な環境、敷地内の死罪場、石町時の鐘の伝承という4点を2×2グリッドで一覧化。怖さの背景が心霊ではなく史料に基づく歴史であることを示す。
「怖い」と言われる4つの背景を読む前にまず全体像を把握しておくと、各エピソードが頭の中でつながりやすくなります。

「怖い」という言葉でこの場所が検索される背景には、いくつかの理由があると考えられます。心霊スポットとしての噂というより、史料や案内で触れられる出来事として挙げられるポイントを、順番に確認していきましょう。

背景① 約270年・数十万人を収容した「収容・執行施設」だった

伝馬町牢屋敷がこの地に置かれたのは慶長年間(1596〜1615年頃)のこと。以来、明治8年(1875年)に市谷監獄へ機能が移されるまで、長期間にわたり稼働し続けたと説明されています。
面積は2,618坪とされ(中央区等の資料より)、現代の感覚では”ある程度まとまった規模”の敷地だったことがうかがえます。

収容者数は通常300〜400人ほど、多い時にはその倍ほどにのぼったとも伝えられています。
入牢した人数については、長期間の稼働を踏まえた推計として数十万人規模という数字が語られることもありますが、推計の前提は解説資料によって異なるため、目安として捉えるのが適切です。

ここでひとつ整理しておきたいのが、この施設の「性質」です。江戸時代には現代のような懲役刑・禁固刑という概念がありませんでした。

つまり伝馬町牢屋敷は、刑が確定するまでの収容(現代の拘置施設に近い側面)と、刑の執行に関わる役割をあわせ持っていた、と説明されることが多い施設です。

伝馬町牢屋敷のキホン
慶長年間〜明治8年まで長期間稼働。面積は2,618坪とされ、通常300〜400人を収容したと伝えられています。機能面では現代の拘置施設に近い側面があり、江戸市中の牢屋敷として中心的な役割を担っていたとされます。

背景② 牢名主制度と「口減らし」。牢内は苛烈な環境だったとされる

牢屋敷の「怖さ」は、外側だけにあったわけではありません。牢内部の環境については、苛烈だったと記す解説や研究もあります

牢内は牢名主制度のもと、囚人側の自治が一定程度働いていたとされます。
牢名主をトップとした階層があり、上位の囚人には比較的広い空間が確保された一方で、階層の低い区画では複数人が同じ狭い空間で過密に過ごしたとする解説もあります。

採光・通風が十分でなかったこと、衛生環境が厳しかったことを示す解説があり、疥癬などの皮膚病が問題になったとされる記述も見られます。
「ツル」と呼ばれるやり取り(賄賂に近いもの)が語られることがあり、持ち物の扱いに格差があったとする記述もあります。

また、収容過多になると「作造り(さくづくり)」と呼ばれる”口減らし”の話は各種解説の中で言及されることがありますが、具体的な実態や件数まで確証できる公的記録は限られるため、伝承・解釈の領域を含む点には留意が必要です。

また、幕府の取調べに関連して、代表例として次のような拷問が挙げられることがあります(分類・順序は資料によって整理が異なる場合があります)。

  • 笞打(むちうち):取調べの場で実施されたとされる。比較的頻繁に行われたと伝えられる
  • 石抱(いしだき):正座させ膝の上に石板を重ねる手法とされる
  • 海老責(えびぜめ):後手に縛り前屈みに縛る。重い場合に用いられたとされる
  • 釣責(つるぜめ):縛り上げて吊るす手法とされる。最も重い種類として語られる

牢内の実態に関する記述は、公的な一次資料が限られているため、研究書や史料解説をもとにした内容を含みます。「作造り」や拷問の詳細については複数の解説で言及されているものの、すべての事例が公式記録で確認できるわけではありません。

背景③ 死罪場と山田浅右衛門。敷地内に刑の執行に関わる場所があった

伝馬町牢屋敷が「処刑場でもあった」という点は、現在の十思公園を訪れる際に最も心に重くのしかかる情報かもしれません。

敷地の南東角に「死罪場」(首斬り場)が設けられたと説明されており、刑の執行に関わる場だったと各種資料で紹介されています。
刑の執行に関わった人物・家として、山田浅右衛門の名が挙げられることがあります。将軍家所蔵の刀の試し斬り(ためしぎり)に関わった、と紹介されることもあります。

ただし、すべての刑がここで執行されたわけではありません。磔(はりつけ)や火刑に処される大罪人は、江戸市中を引き廻しのうえ、小伝馬町エリアの歴史でも触れているように、小塚原(現・荒川区南千住)または鈴ヶ森(現・品川区)の刑場へ送られていたと説明されています。
八百屋お七は鈴ヶ森刑場で火刑に処されたとされています。

伝馬町牢屋敷は江戸市中の収容・執行に関わる拠点として語られ、小塚原・鈴ヶ森は街道筋に位置する公開性の高い刑場として位置づけられることが多い。そのような機能の違いがあります。この点については、記事後半の比較コラムでも整理しています。

伝馬町と江戸の刑場・役割の違い

  • 伝馬町牢屋敷:江戸市中の収容拠点。斬首(下手人・死罪)に関わる場として語られる
  • 小塚原刑場(南千住):街道沿いの公開性の高い刑場。処刑後の埋葬地としても知られる
  • 鈴ヶ森刑場(品川):東海道沿いの公開性の高い刑場。八百屋お七の火刑の地とされる

背景④ 処刑の合図だったという「石町時の鐘」。”情けの鐘”と呼ばれた逸話

十思公園の中央あたりに、ひときわ存在感のある鐘楼が立っています。これが「石町時の鐘(こくちょうときのかね)」。江戸時代に時刻を知らせるために使われた鐘です(東京都指定有形文化財)。

鐘楼が元々あった本石町三丁目から伝馬町牢屋敷までの距離は、約二丁(およそ200m強)とされています。処刑の合図としてこの鐘の音が用いられた、という記述・伝承が残っているとされており、囚人たちにとって「自分の最期を告げる音」だったとも伝えられています。

そして、この鐘にはこんな逸話が伝わっています。

処刑が予定された日、鐘撞き番が鐘を遅く撞き、処刑者の延命を願ったとも。そういった逸話が伝わり、この鐘は「一名・情けの鐘」と呼ばれることがあるといいます(伝承)。当時の川柳には「石町は江戸を寝せたり起こしたり」という一句も残っており、石町の鐘が江戸の人々の生活に深く刻み込まれていたことが伝わってきます。

この鐘は年末年始に一般参加の機会が設けられることがありますが、実施有無や参加方法は年によって変わる可能性があるため、最新情報は事前にご確認ください。詳しくは日本橋近辺の除夜の鐘・年越しスポットの記事もあわせてご覧ください。

吉田松陰の最期。伝馬町牢屋敷で散った、30年の生涯

伝馬町牢屋敷跡を訪れると、入口付近で目に入りやすいのが「吉田松陰先生終焉之地」の石碑です。辞世の句が刻まれたこの碑を前にして、改めて松陰の最期の経緯を知りたくなった。そんな方のために、史実をもとに時系列で整理しました。

吉田松陰の安政の大獄から処刑・改葬までを横型タイムラインで整理した図解。安政5年の大獄開始から伝馬町収監・留魂録執筆・安政6年10月27日の処刑(享年30)・小塚原埋葬・文久3年の松陰神社改葬まで一覧化。辞世の句も掲載。
安政の大獄から処刑・改葬まで——吉田松陰の最期の経緯を時系列で整理すると、十思公園の石碑に刻まれた辞世の句の意味がより深く伝わってきます。

安政の大獄から伝馬町へ。取調べでの供述が判決に影響したとされる

吉田松陰が伝馬町牢屋敷に収監されたのは、安政の大獄(安政5年9月〜安政6年12月)の流れのなかでのことでした。安政の大獄は、幕府が天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約を締結したことに反発する尊王攘夷派の志士や公家を、大老・井伊直弼が弾圧した大規模な政治粛清です。

一般的な解説では、老中首座・間部詮勝の上洛の際にこれを討ち取るという計画に松陰が関わっていたとされ、評定所(幕府の最高裁判所的機関)での取調べの場での本人の供述が判決に影響した、と説明されることが多いです。問題だったのは、密告や証拠の発見というより、取調べの過程で松陰自身がこの計画について語ったことだった。と解釈される場合が多いとされています(要旨は一般的な解説書や案内板でも確認できます)。

評定所での取調べは4回にわたって行われ、安政6年(1859年)10月27日、松陰は伝馬町牢屋敷にて斬首刑に処されたとされています。享年30(JAFナビ「吉田松陰終焉の地(十思公園)」より)。

安政の大獄のスケール
安政の大獄の犠牲者数は資料によって整理が異なりますが、50余人、あるいはその後も含め96名という数字が語られることもあります。十思公園近くの村雲別院境内には、こうした志士たちを祀る木碑が今も残っています。

「留魂録」。処刑前夜に書き上げた松陰の遺言

処刑の2日前、安政6年10月25日から26日にかけて、松陰は牢内で一冊の書を書き上げました。それが「留魂録(りゅうこんろく)」です。

留魂録は、自分の死後に弟子たちへ向けた言葉を記した書とされています。松陰はその中で「死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし」という言葉を残したとも伝えられています。自分の死を嘆くのではなく、その志が後世に残ることを信じて書いた。松陰の思想の核がここに凝縮されています。

十思公園内の石碑に刻まれている辞世の句はこちらです。

吉田松陰の辞世の句
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

意訳:たとえ自分の身が武蔵野(現在の東京周辺)の野に朽ちようとも、大和魂だけはこの世に留め置きたい。

武蔵野とはこの伝馬町、つまり東京のことを指しています。故郷・長州(山口)から遠く離れた江戸の地で処刑されることへの覚悟と、それでも志を残したいという強い思いが込められた句です。石碑の前で改めてこの句を読むと、その重さが違って伝わってきます。

処刑当日の朗吟と、遺体のその後

安政6年10月27日。処刑当日の松陰について、複数の資料に同様の記述が残っています。揚屋(特別な独房)から処刑場へ連れ出される際、松陰は漢詩を朗吟しながら歩いていったと伝えられています。

処刑後、松陰の遺体は伝馬町から小塚原回向院(現・荒川区南千住)へ搬送・埋葬されたとされています。これは当時の通例で、伝馬町牢屋敷で処刑された者の遺体は小塚原へ送られていたためと説明されています。

しかし松陰の死から約4年後。文久3年(1863年)、かつての門下生だった高杉晋作、伊藤博文(当時は伊藤俊輔)らが、小塚原に眠る松陰の遺体を現在の東京都世田谷区若林へ改葬したとされています。この地に後に建立されたのが、松陰神社です(明治15年創建)。師の志を後世に伝えようとした弟子たちの行動が、今の松陰神社に繋がっています。

吉田松陰ゆかりの地・セットで巡るなら
伝馬町牢屋敷跡(終焉の地)→小塚原回向院・南千住(最初の埋葬地とされる場所)→松陰神社・世田谷(改葬地)という順で辿ると、松陰の「死後の旅」を追体験できます。小塚原は日比谷線で南千住駅下車(小伝馬町から約10分)でアクセスできます。

伝馬町牢屋敷に収容された著名人たち

吉田松陰のほかにも、伝馬町牢屋敷には教科書に名前が登場するような人物が数多く収容されたとされています。それぞれの人物と、牢屋敷との関わりを一覧で確認してみましょう。小伝馬町の地名の由来や街の概要については別記事で詳しくまとめているので、あわせてご覧ください。

人物名時代収容・処刑の経緯最期
吉田松陰幕末安政の大獄。取調べの場での供述が判決に影響したとされる伝馬町にて享年30(安政6年)
橋本左内幕末福井藩士。安政の大獄で収監伝馬町にて享年26
頼三樹三郎幕末儒学者・頼山陽の子。安政の大獄で収監小塚原回向院とされる
平賀源内江戸中期エレキテルで知られる蘭学者・発明家。殺傷事件で投獄牢内で獄死(破傷風とも伝えられる)
高野長英幕末蘭学者。蛮社の獄で投獄牢内火災に乗じて脱獄。後に捕縛。
渡辺崋山幕末蘭学者・画家。蛮社の獄で投獄蟄居処分ののち、後に自刃
八百屋お七江戸前期放火の罪で投獄鈴ヶ森刑場にて刑に処されたとされる

SNSでは「市中引き回しのコースを、伝馬町牢屋敷跡から歩いてみた」という歴史好きの方の投稿も見られるほど、この地は歴史ファンにとって特別な場所になっています。

馬喰町の名前が怖いと感じる方へ向けた記事でも触れているように、日本橋エリアの地名はその字面だけでも歴史の重さを感じさせるものが多くあります。

現在の十思公園を歩く。牢屋敷跡の史跡ガイド

重い歴史を持つ場所が、今はどんな姿になっているのか。十思公園を実際に歩くと、その「落差」に不思議な感覚を覚えます。

東京メトロ日比谷線・小伝馬町駅のエレベータ口を上がると、目の前にすぐ公園の入口があります。大通りから一本入った立地のため、時間帯によっては比較的落ち着いて感じられることがあります(口コミ等)。昼間は子連れや保育園の散歩コース、サラリーマンのランチ休憩と、ごく普通の都市公園としての顔を持ちます。

ちなみに「十思」という名称は、関東大震災(1923年)後の復興事業で公園が整備された際に付けられたもの。中国の歴史書『資治通鑑』の「十思之疏」に由来するとされています。かつて江戸最大規模の牢屋敷があったとされる場所に、「10の戒め」を意味する名前が付いた。と知ると、この公園をめぐる「重なり」が、さらに深く感じられます。

史跡は公園内と、すぐ隣の大安楽寺・十思スクエア別館に分かれています。以下に順番に整理しました。

吉田松陰先生終焉之地碑。辞世の句を石碑で読む

公園の東側に立つ、ひときわ凛とした佇まいの石碑。「吉田松陰先生終焉之地」と刻まれたこの碑は、昭和14年(1939年)に建立されたもので、文部大臣・荒木貞夫の揮毫とされています(JAFナビ「吉田松陰終焉の地(十思公園)」より)。

碑には辞世の句「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」と、松陰の略歴が刻まれています。観光で訪れた方のSNS投稿に「石碑の前に立って初めて、本当にここで処刑されたんだと実感した」という声も見られ、写真と文字で読むのとは異なる重みを感じる場所のようです。

近くには「三縁史蹟の碑」(小伝馬町駅4番出口前)もあり、「石町宝永時鐘」「江戸伝馬町牢屋敷跡」「吉田松陰先生終焉之地」の三史跡を案内しています。公園を訪れる前にこの碑を確認しておくと、より文脈が掴みやすくなります。

石町時の鐘(東京都指定有形文化財)。処刑の合図だったという伝承の鐘が今もここに

公園中央に構える鐘楼は、十思公園のシンボル的存在です。宝永8年(1711年)鋳造の銅鐘で、高さ約1.7m。東京都指定有形文化財に指定されています(中央区公式資料・銅鐘石町時の鐘より)。

元々は本石町三丁目に設置されていた江戸最初の時の鐘で、昭和5年(1930年)に現在の十思公園へ移設されました。前述のとおり、処刑の合図として用いられた伝承が残り「情けの鐘」と呼ばれることがあるといいます。年末年始に一般参加の機会が設けられることがありますが、実施有無や参加方法は年によって変わる可能性があるため、最新情報は事前にご確認ください。参加方法の詳細は日本橋近辺の除夜の鐘・年越しスポットの記事も参考になります。

牢屋敷の石垣(移築復元)。唯一の「現物」を見る

十思スクエア別館(展示館)の入口付近に、実際の牢屋敷の石垣を移築復元した展示があります。平成24年(2012年)の発掘調査で出土した安山岩製の石垣で、公園内で唯一「牢屋敷の現物」に触れられる場所です(中央区公式資料より)。

文献で「2,618坪の牢屋敷」と読んでも、なかなか実感が湧きにくいものですが、発掘されたこの石垣を目の前にすると、確かにここに構造物があったことが伝わってきます。パネルや模型だけではなく、この「現物」を見ることに意義があります。

大安楽寺と延命地蔵尊。処刑場跡に建つ慰霊の寺

十思公園の向かい(徒歩1分以内)に位置する大安楽寺は、伝馬町牢屋敷の処刑場跡地に建立されたお寺です。明治8年(1875年)に牢屋敷が閉鎖された後、実業家の大倉喜八郎と安田善次郎が土地を寄進し、両者の名から「大安楽寺」と名付けられたと伝えられています。

境内の壁面には「江戸伝馬町処刑場跡の碑」が設けられており、処刑場跡の位置を示しています。また、刑死者の供養のために安置された延命地蔵尊も境内に佇んでいます。参拝を希望する場合は、境内への立入可能時間を事前に大安楽寺へご確認ください。

大安楽寺のすぐ隣には身延別院(日蓮宗)もあり、牢屋敷跡地の一部にあたります。村雲別院の境内には、安政の大獄等で命を落とした志士たちを祀る木碑も残っています。十思公園と合わせて、この一帯をゆっくり歩いてみてください。

小伝馬町牢屋敷展示館(十思スクエア別館)。訪れる前に知っておきたい規模感

十思公園に隣接する十思スクエア別館内に、小伝馬町牢屋敷展示館があります。「展示館」はコンパクトな施設のため、展示ボリュームは“短時間で見学できる規模”と捉えておくと安心です。

展示の中心は牢屋敷内部を精巧に再現したジオラマ(立体模型)と案内パネルで、見学時間は展示の見方にもよりますが、15〜30分程度で回る方が多いようです(口コミ等)。
入館料や開館時間は無料・9:00〜20:00と案内されることがありますが、変更の可能性もあるため、訪問前に最新情報をご確認ください。

コンパクトな展示だからこそ、牢屋敷に特化して集中して見られる、という良さもあります。公園内の史跡をひと通り見た後に立ち寄ると、全体の構造がジオラマでつながって「なるほど」となる感覚があります。十思公園→石碑・石垣→展示館、の順に回るのがおすすめです。

史跡巡りに関心のある方には、十思公園から徒歩約2分の千代田神社も合わせて立ち寄る価値があります。小伝馬町エリアのディープな歴史と、現役の信仰が交差する場所です。

十思公園・伝馬町牢屋敷跡のアクセスと基本情報

訪問前に確認しておきたい基本情報をまとめました。展示館と公園では場所が異なりますので、ご注意ください。各情報は変更される可能性があるため、訪問前に公式・各施設にてご確認いただくことをおすすめします。

十思公園・伝馬町牢屋敷跡への4つの最寄り駅からのアクセスを放射状で示した導線図。小伝馬町駅エレベータ口から徒歩約1分が最短で、新日本橋・馬喰町・馬喰横山の各駅からは徒歩約6分でアクセス可能。入園無料・常時開放の情報も掲載。
小伝馬町駅エレベータ口を上がると目の前が公園の入口。複数の駅から歩いてアクセスできるので、乗り換え次第でルートを選べます。
項目内容
公園名中央区立十思公園(伝馬町牢屋敷跡:東京都指定旧跡)
住所東京都中央区日本橋小伝馬町5-2
最寄り駅①東京メトロ日比谷線「小伝馬町」駅 エレベータ口 徒歩約1分
最寄り駅②JR総武快速線「新日本橋」駅 徒歩約6分
最寄り駅③④JR「馬喰町」駅・都営新宿線「馬喰横山」駅 各徒歩約6分
開園時間常時開放(公園のため)※夜間照明の状況は要現地確認
入園料無料
トイレあり(多機能トイレ・ベビーシート完備)
遊具コンビネーション遊具・ブランコ・砂場あり。子連れにも利用されている公園です
展示館住所東京都中央区日本橋小伝馬町5-19 十思スクエア別館内
展示館開館時間9:00〜20:00と案内されることがありますが、変更の可能性があるため事前確認推奨
展示館入館料無料(変更の可能性あり。事前確認推奨)
展示館電話03-3546-5346(中央区区民部文化・生涯学習課)
公園管理中央区環境土木部 水とみどりの課 TEL:03-3546-5435

公園の夜間照明状況・駐輪場の有無については、公式での明記が調査時点で確認できていません。夜間の訪問を検討される場合は、事前に中央区へお問い合わせいただくか、昼間の訪問をおすすめします。また、歴史的な慰霊の場所を含むエリアのため、夜間の大声や集団での訪問は近隣住民への迷惑となりますのでご遠慮ください。

歴史散策の後に立ち寄りたい!小伝馬町〜人形町の回遊コース

小伝馬町駅から十思公園・大安楽寺・牢屋敷展示館を経て人形町エリアまでをつなぐ歴史散策モデルコースの徒歩ルート図。5つのスポットを順番に配置し所要目安約2〜3時間を記載。甘酒横丁・小網神社への回遊導線も含む。
史跡を巡った後は人形町方面へ歩いて回遊——徒歩約15分で甘酒横丁や小網神社まで足を延ばせます。

重い歴史に向き合った後は、少し気持ちをほぐしたくなるものです。十思公園から徒歩圏内に、ちょうどいい「次の目的地」がいくつかあります。

小伝馬町エリアのカフェで一息

十思公園から徒歩3〜5分の範囲に、スペシャルティコーヒーを楽しめるカフェが点在しています。

nexpect coffeeは新しめの店舗として紹介されることがあります。設備(Wi-Fi等)や提供内容は変更の可能性もあるため、最新情報は店舗公式でご確認ください。PERTICA COFFEEは「とまり木」を意味する店名どおり、木の温もりを感じる落ち着いた空間が特徴として紹介されています。

小伝馬町駅周辺のカフェをもう少し広く探したい方は、小舟町エリアの人気カフェ4選もあわせてご覧ください。徒歩圏内でランチも楽しめるお店を紹介しています。

人形町・水天宮方面へ足を延ばすなら

十思公園から南へ徒歩約15分歩くと、人形町エリアに入ります。人形町今半は、散策の立ち寄り先として挙げられることの多いお店です。

人形町エリアでは甘酒横丁の食べ歩きもおすすめで、人形町で時間をつぶせるスポットの記事で詳しく紹介しています。また、安産祈願で知られる水天宮や、強運厄除けで知られる小網神社も、十思公園から歩いてアクセスできます。

おすすめ散策モデルコース(所要:約2〜3時間)

  • 小伝馬町駅エレベータ口 → 三縁史蹟の碑(駅前)で予習
  • 十思公園(史跡碑・石町時の鐘・石垣)→ 大安楽寺・身延別院
  • 小伝馬町牢屋敷展示館(十思スクエア別館、見学目安15〜30分)
  • nexpect coffee または PERTICA COFFEEで一息(徒歩3〜5分)
  • 人形町方面へ徒歩15分 → 甘酒横丁・今半・小網神社

【比較コラム】伝馬町牢屋敷・小塚原刑場跡・鈴ヶ森刑場跡の違い

「江戸時代の処刑場」として同列に語られることがある3つのスポット。
実はそれぞれ機能が異なります。セットで巡る計画をされている方のために、違いを整理しました。

名称性質処刑の種類アクセス(伝馬町から)現在の状態
伝馬町牢屋敷跡(十思公園)江戸市中の収容・執行に関わる拠点として語られる斬首(下手人・死罪)に関わる場として説明される——(本記事のスポット)公園として整備。史跡碑・石町の鐘現存
小塚原刑場跡(南千住回向院)街道沿いの公開性の高い刑場として位置づけられることが多い磔・斬首等。吉田松陰の遺体の最初の埋葬地とされる日比谷線で約10分(南千住駅下車)回向院境内に史跡碑あり。杉田玄白「解体新書」の腑分けが行われた場所とも伝えられる
鈴ヶ森刑場跡(品川)東海道沿いの公開性の高い刑場として語られる磔・火刑(八百屋お七の火刑の場とされる)電車で約30分磔台の石・火刑台の石等が現地に現存
伝馬町牢屋敷跡・小塚原刑場跡・鈴ヶ森刑場跡の機能と性質を3列カードで比較した図解。収容執行の拠点である伝馬町と、街道沿いの公開刑場である小塚原・鈴ヶ森の違いをアクセス情報とあわせて整理した訪問判断ガイド。

3つの違いをまとめるなら、「伝馬町は収容・執行に関わる拠点、小塚原・鈴ヶ森は公開性の高い刑場として語られることが多い」と整理すると誤解が少ないと思います。いずれも「江戸の司法・刑罰の歴史」を伝える史跡として、セットで訪れる方も少なくありません。

よくある質問

伝馬町牢屋敷跡・十思公園についてよく寄せられる質問をまとめました。

伝馬町牢屋敷跡はなぜ「怖い」と言われるのですか?

伝馬町牢屋敷跡が「怖い」と感じられる背景は、心霊的な噂や都市伝説というより、史料や案内碑で語られている歴史に目が向くことが多いようです。慶長年間から明治8年(1875年)まで長期間にわたり牢屋敷として機能し、敷地内に刑の執行に関わる場所があったとされることが、「怖い」という印象につながりやすい理由として挙げられています。現在は十思公園として整備された一般の公園で、昼間は子連れやサラリーマンが訪れる穏やかな場所です。

十思公園には何がありますか?

十思公園には、東京都指定有形文化財の「石町時の鐘」鐘楼、「吉田松陰先生終焉之地」石碑、伝馬町牢屋敷跡の旧跡碑(東京都指定旧跡)、平成24年の発掘調査で出土した牢屋敷の石垣(移築復元)などがあります。遊具・ベンチも設置されており、隣接する十思スクエア別館内には小伝馬町牢屋敷展示館もあります(開館・料金等は変更の可能性があるため事前にご確認ください)。

吉田松陰は伝馬町牢屋敷でどのような最期を迎えたのですか?

吉田松陰は安政の大獄により伝馬町牢屋敷に収監され、評定所での取調べを経て、安政6年(1859年)10月27日にこの地で処刑されたとされています(享年30)。処刑前夜の10月25〜26日には弟子たちへの遺言として「留魂録」を書き上げており、辞世の句「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」が十思公園内の石碑に刻まれています。処刑後の遺体は小塚原回向院へ埋葬されたとされ、その後文久3年(1863年)に高杉晋作らによって現在の世田谷区若林(松陰神社)へ改葬されたと伝えられています。

小伝馬町牢屋敷展示館の入館料と開館時間を教えてください。

小伝馬町牢屋敷展示館は、十思スクエア別館(東京都中央区日本橋小伝馬町5-19)内にあり、入館料は無料、開館時間は9:00〜20:00と案内されることがありますが、いずれも変更の可能性があります。訪問前に中央区区民部文化・生涯学習課(03-3546-5346)または最新の公式情報でご確認ください。展示内容は牢屋敷内部を再現したジオラマと案内パネルで、見学は短時間で回れるコンパクトな規模です。

十思公園の最寄り駅とアクセス方法を教えてください。

十思公園の最寄り駅は東京メトロ日比谷線「小伝馬町」駅で、エレベータ口を出ると目の前が公園の入口です(徒歩約1分)。JR総武快速線「新日本橋」駅・「馬喰町」駅、都営新宿線「馬喰横山」駅からはいずれも徒歩約6分でアクセスできます。入園料は無料です。

「怖い」という言葉で検索してここにたどり着いた方が、最終的に「歴史が面白い」と感じて帰ってくれたら嬉しい。そんな気持ちでこの記事を書きました。十思公園は、何も知らずに通り過ぎると「ちょっと古い公園」で終わってしまう場所です。でも背景を知ったうえで立てば、石碑の一行一行がまったく違う重さで目に入ってきます。ぜひ一度、足を運んでみてください。

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