高橋是清とは
高橋是清とは、日本銀行の第7代総裁を務め、のちに首相や大蔵大臣となった官僚・政治家です。1854年に江戸で生まれ、1936年に二・二六事件で亡くなりました。日本橋本石町との関わりは総裁時代だけではなく、日本銀行本店本館が建設中だった時期までさかのぼります。
総裁になる前から日本橋本石町へ
高橋はペルーでの銀山開発に失敗して帰国したのち、1892年、建設中の日本銀行本店本館で建築事務主任に採用されました。翌年には西部支店長となり、その後は副総裁へ。さらに1911年6月1日から1913年2月20日まで第7代総裁を務めました。
高橋が本館を設計したのでしょうか。設計と工事監督を担ったのは辰野金吾で、高橋は建設組織の実務を担った人物でした。この役割の違いを知ると、本館が建築家一人の仕事ではなく、金融機関の組織づくりと並行して完成したことが見えるはずです。
日本橋から金融・政治の表舞台へ
高橋は日本銀行で支店長、副総裁、総裁へと進み、1921年には首相に就任。この街でその足跡をたどるなら、政治家としての経歴だけを見るより、本館の建設現場から中央銀行のトップへ進んだ流れを意識すると理解しやすいでしょう。
日本橋トピック♪五十円札の表と裏に刻まれた日本橋との縁
貨幣博物館の資料によると、日本銀行券B五十円券の表面には高橋是清の肖像、裏面には日本銀行本館が描かれました。若き日に建設へ関わり、のちに総裁を務めた人物と、その歩みの舞台になった建物。一枚の紙幣の表裏に、この地との縁が刻まれています。
高橋是清に関するよくある質問
- 高橋是清は日本銀行に入る前、どんな仕事をしていましたか?
- 官吏として特許制度の整備に関わり、特許局長まで務めました。その後ペルーで銀山開発に挑み、失敗して帰国したのち日本銀行に入りました。
- 高橋是清と辰野金吾は、日本銀行本館の建設前から知り合いでしたか?
- はい。1871年、唐津藩洋学校の耐恒寮で高橋是清が英語教師を務め、辰野金吾らに教えていました。

