岡本玄冶とは
岡本玄冶とは、江戸時代前期に将軍徳川秀忠・家光に仕えた幕府の医師(医官)です。今の日本橋人形町の一角に住んだことから、そこは「玄冶店(げんやだな)」と呼ばれるようになりました。
曲直瀬玄朔に学び、将軍の医師に
岡本玄冶(1587〜1645年)は京都の出身。慶長7年(1602年)に医師の曲直瀬玄朔(まなせげんさく)に入門し、のちにその娘婿となって、玄朔の奥義をすべて伝授されたといわれます。元和4年(1618年)に法眼、寛永5年(1628年)に法印という医師の高い位を授かり、院号を「啓迪院(けいてきいん)」といいました。
元和9年(1623年)には家光について江戸へ出て、将軍秀忠の侍医も務めます。寛永14年(1637年)には家光の病を治し、千石の領地を与えられました。中央区観光協会の案内は、将軍家光が痘瘡(天然痘)を病んだときに見事に全快させ、一躍その名を高めた名医と紹介しています。著書には『灯下集』『玄冶方考』など。
日本橋トピック♪将軍も、天皇も診た医師
玄冶が腕をふるったのは、江戸だけだったのでしょうか。ブリタニカ国際大百科事典によると、寛永4年(1627年)から10年間は江戸と京都を1年おきに務め、京都では後水尾上皇や明正天皇の診察にあたりました。日本人名大辞典も「京都にいるときは天皇を診療した」と記しています。江戸では将軍の病を治し、京都では上皇と天皇を診る。武家と朝廷のどちらからも頼られた医師だったのです。
岡本玄冶に関するよくある質問
- 岡本玄冶と「玄冶店」は、どういう関係ですか?
- 中央区観光協会によると、「玄冶店」の地名は、江戸時代に医者の岡本玄冶がここに住んだことに由来します。歌舞伎『与話情浮名横櫛』に出てくる「源氏店」のモデルにもなりました。
- 「啓迪院」とは何のことですか?
- 玄冶の院号です。号は啓迪庵といいました。子孫も代々幕府の医官を務め、「啓迪院」の号と「玄冶」の名を受け継ぎました。

