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日本橋蛎殻町一丁目遺跡とは

日本橋蛎殻町一丁目遺跡とは、日本橋蛎殻町一丁目にある江戸時代を中心とした遺跡で、播磨国山崎藩本多家の上屋敷跡が発掘された場所です。平成14年(2002年)から平成15年(2003年)の調査で、武家屋敷の暮らしを伝える品々が見つかりました。

本多家が132年間使った上屋敷

周辺は徳川家康の江戸入府後、慶長年間に沼地を埋め立てて形成され、江戸時代を通じて複数の武家が利用しました。本多家が上屋敷として拝領したのは享保17年(1732年)。元治元年(1864年)まで、利用は132年間に及びます。この本多家は、徳川四天王の一人・本多忠勝の系統から出た分家で、徳川家の縁戚にあたる家でした。領地は現在の兵庫県宍粟市山崎町にあたり、石高は1万石。大名としては最小の格です。

火災後の片付けを伝える125号遺構

注目される125号遺構は、火災後の焼土や焼けた品を片付けるために掘られた焼土整理坑です。長さ5.04メートル、幅1.92メートル、深さ0.64メートル。出土したのは18世紀前葉から中葉の陶磁器・土器、土製品、金属製品、銭貨、石製品などで、このうち96点が中央区民有形文化財に登録されています。建材の瓦が多量に含まれることから、中央区は家屋の一部ごとゴミが捨てられたと読み取りました。災害後の行動まで読み取れる点が、この遺構の値打ちでしょう。

日本橋トピック♪10客そろいで出てきた、江戸では他に例のない皿

出土品の中には、当時の贈答や献上に使われた肥前国鍋島藩の御用窯の磁器五寸皿がありました。しかも10客組で、中央区はこれを江戸では他に見られない出土の仕方と記しています。ふつうなら欠けたものから順に散らばるはずの器が、なぜそろいのまま残ったのでしょうか。火災で家財道具が一度に捨てられたからです。1万石という小さな大名の屋敷から、賓客をもてなすための器がひと揃い出てきたことになります。

日本橋蛎殻町一丁目遺跡に関するよくある質問

125号遺構の出土品が文化財に登録されたのはいつですか?
令和3年(2021年)4月1日です。中央区民有形文化財の考古資料として、96点が登録されました。
出土品はどこで見られますか?
中央区公式ページの所在地は、新富一丁目13番14号の中央区立郷土資料館です。現地での展示状況は、来館前に同館の案内を確認してください。

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