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村野藤吾とは

村野藤吾とは、1891年(明治24年)から1984年(昭和59年)に生きた建築家です。日本橋高島屋S.C.本館の戦後増築を設計し、1933年竣工の当初部分を生かしながら一街区を占める百貨店建築へつなげました。

本館の全部ではなく、戦後の増築を設計

本館の中央通り側にある当初部分を設計したのは、高橋貞太郎。村野は1952年から1965年まで4期にわたる増築を担当しました。高島屋の建築の変遷を見ると、1952年の第1次増築には高橋貞太郎が顧問として名を連ねています。

増築部分は、当初部分の規則的なデザインを引用して建物全体の一体性を保ちつつ、ガラスブロックの壁や彫刻的な造形の屋上塔屋といった新しい表現を加えたもの。では、外からどこで見分けられるのでしょうか。南側の外壁では、2階から6階にガラスブロックを使った増築部分が見られます。

村野は1918年(大正7年)に早稲田大学理工学部建築科を卒業し、大阪の渡辺節建築事務所に入りました。1929年(昭和4年)に独立し、1967年(昭和42年)には文化勲章を受章しています。

日本橋トピック♪独立後の第1作も、日本橋にある

ビルの公式沿革と東京都の歴史的建造物の解説が、村野の「渡辺節建築事務所から独立後の第1作」と記すのが、日本橋室町4丁目の近三ビルヂング(旧森五商店東京支店)です。1931年(昭和6年)8月に竣工し、1999年に東京都選定歴史的建造物に選ばれました。1976年には村野自身が1階と中2階の改修を手がけました。45年後、自分の第1作へ戻ってきたことになります。内部は一般に公開されていないため、眺めるなら外観から。

村野藤吾に関するよくある質問

日本橋高島屋の屋上にある象の形の塔屋は、村野藤吾のデザインですか?
高島屋の公式コラムは、1950年から4年間屋上で飼われていた子象・高子の面影を残そうと、村野が増築の際に象の形のモニュメントにデザインしたと言われている、と紹介しています。
村野藤吾は日本橋出身の建築家ですか?
日本橋出身ではありません。1891年に佐賀県唐津市で生まれ、福岡県八幡市で育ちました。日本橋とは、高島屋の増築などの設計を通じてつながりのある建築家です。

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