日本橋兜町といえば、東京証券取引所を中心に日本経済の中枢を担うエリアとして知られていますが、その一角に歴史的な名所「鎧の渡し」が存在していたことをご存じでしょうか?今回は、この地にまつわる伝説や歴史、そして現代に残る痕跡について詳しく解説します。
鎧の渡しとは?
「鎧の渡し」は、江戸時代に日本橋川を挟んで小網町と茅場町を結ぶ渡船場として機能していました。その存在は延宝7年(1679年)の絵図に記録されており、以降も数多くの地誌や絵図に描かれています。この渡し場は地域住民や商人たちにとって重要な交通手段であり、物流や人々の交流を支える役割を果たしていました。
しかし、明治5年(1872年)に「鎧橋」が架けられたことでその役割を終えます。現在では、「鎧の渡し跡」を示す看板が設置されており、当時の歴史を今に伝えています。

鎧の渡しにまつわる伝説
源義家と龍神の祈り
この地には、平安時代の武将・源義家(みなもとのよしいえ)にまつわる伝説が語り継がれています。永承年間(1046~1053年)、奥州平定へ向かう途中でこの地を訪れた義家は、暴風雨によって川を渡れなくなりました。そこで、自らの鎧を川に沈めて龍神(水神)に祈りを捧げたところ、風雨が収まり無事に川を渡ることができたといいます。この出来事から、この地は「鎧が淵」と呼ばれるようになり、後に渡船場が「鎧の渡し」と名付けられました。
平将門との関係
また、「鎧の渡し」には平将門(たいらのまさかど)との伝承もあります。この地には将門が兜と鎧を納めたという言い伝えがあり、近隣には兜神社や兜岩といった関連する史跡も存在します。これらは、日本橋兜町という地名の由来にも深く関わっています。
江戸時代の賑わい
江戸時代、「鎧の渡し」は単なる交通手段以上の存在でした。絵図や地誌だけでなく、『江戸名所図会』などにも描かれており、当時この地域が商業や物流で活気づいていた様子がうかがえます。また、俳句や狂歌にも詠まれるなど、文化的な影響も見られます。

俳句・狂歌
看板にも記載されているように、「鎧の渡し」に関する狂歌には以下のようなものがあります:
縁日に
買うてぞ帰る
逆さにうつる
おもだかも
鎧のわたし
こうした文学作品からも、「鎧の渡し」が当時人々に親しまれていた様子が感じられます。
現代に残る「鎧の渡し」の痕跡
看板と歴史的解説
現在、「鎧の渡し跡」を示す看板が日本橋川沿いに設置されています。この看板には、「鎧の渡し」の歴史的背景や源義家・平将門にまつわる伝説だけでなく、当時の風景や文化についても詳しく記されています。また、『江戸名所図会』から引用された絵図も描かれており、当時の様子を視覚的にも楽しむことができます。
モニワザクラ
さらに、この場所には東日本大震災を忘れないために植樹されたモニワザクラがあります。春になると美しい花を咲かせ、この地を訪れる人々を楽しませています。震災復興への願いとともに、新たな歴史的価値を生み出しています。
周辺スポット
「鎧の渡し跡」を訪れる際は、近隣スポットにも足を運んでみてください。
- 兜神社:日本橋兜町という地名由来とも関連する神社。
- 東京証券取引所:日本経済の中心地。
- 小網神社:強運厄除けで有名な神社。
- 茅場町エリア:古き良き街並みと現代的なビジネス街が融合したエリア。
アクセス情報
「鎧の渡し跡」は東京メトロ日比谷線・東西線茅場町駅から徒歩約3分、日本橋川沿いに位置しています。現在では首都高速道路が上空を走り、その下を流れる日本橋川には「鎧橋」が架かっています。この橋は昭和32年(1957年)に再建されたもので、当時とは異なるものですが、その名前は歴史を今に伝えています。
まとめ
「鎧の渡し」は、日本橋兜町という現代的な街並みに隠された歴史的・文化的遺産です。その背景には源義家や平将門といった歴史上の人物が関わり、多くの伝説や物語が息づいています。訪れる際には、この地に秘められた物語や過去への思いを馳せながら散策してみてはいかがでしょうか?