日本橋五街道とは?歴史や各街道の特徴を解説します!

こんにちは!
とーんと♡日本橋編集部です。

日本橋は、「五街道」の起点として定められているのをご存じでしょうか。

物資供給のために整備された日本橋五街道は、日本経済の発展に大きく貢献してきました。

「日本橋五街道の五街道ってどう意味?」「五街道が整備されたのはいつ?」

今回はこのような疑問をお持ちの方に向けて、日本橋五街道とは何か、歴史や各街道の特徴などを解説します!

興味のある方は、ぜひ最後まで目を通してみてくださいね♪

目次

日本橋五街道とは?その歴史と役割

そもそも「日本橋五街道」とは、江戸日本橋と各地を結ぶ5つの主要道路のことであり、具体的には東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道を指しています。

1601年(慶長6年)、江戸幕府を開いた徳川家康が東海道を整備・拡張したことを皮切りに、中山道や奥州街道など他の街道も順次整備されました。

五街道が整備された主な理由は、大名による参勤交代や物資の運搬を円滑におこなうためです。

これにより、各地からのアクセスがスムーズになり、街道沿いの周辺地域に大きな経済効果をもたらしました。

また街道沿いの要所には、通行人の管理や取り締まりをおこなう関所が設けられ、不審者の通行を阻止する役割も担っていました。

このように、五街道は人々が行き交うための重要な交通路として、江戸時代に大きな役割を果たしていたのです。

五街道が日本橋起点となった理由などは以下のページで詳しくまとめているので、興味のある方はこちらもあわせてチェックしてみてください!

>>五街道が日本橋起点となっている理由はなぜか【簡単にわかりやすく】<<

五街道それぞれの特徴と魅力

先述したとおり、「五街道」は東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道の5つの主要道路を指す総称です。

ここでは、五街道それぞれの特徴と魅力を紹介します。

①東海道(とうかいどう)

東海道は、江戸日本橋から京都三条大橋までを結ぶ海沿いの道

距離は約492㎞です。

街道沿いには53の宿場があり、参勤交代のメインルートとしてよく利用されていました。

他の街道に比べて最も利用者が多く、東海道を利用した大名の数は146家にも及ぶといわれています。

東海道に設けられた箱根関所ではとくに厳しい監視がおこなわれ、江戸を守るための最重要拠点として役割を担っていました。

②中山道(なかせんどう)

中山道は、江戸日本橋から京都三条大橋までを結ぶ山沿いの道

約526㎞と五街道の中では最も長い距離を誇り、宿場の数も69と最多でした。

中山道は山道が多く、人の往来は比較的少なかったといわれています。

その影響もあり、参勤交代の大名の数は30家ほどだったそうです。

③日光街道 (にっこうかいどう)

日光街道は、江戸日本橋から栃木県の日光東照宮までを結ぶ道

距離は約147㎞で、五街道の中では最も短い街道です。

将軍家や諸大名が日光東照宮を参拝する目的で整備された、異色の五街道として知られています。

道中は峠がなく、歩きやすいといった特徴があります。

庶民の参拝も許されていたことから、日光街道は多くの人が利用していたようです。

なお宿場の数は21、参勤交代の大名の数は41家でした。

④奥州街道 (おうしゅうかいどう)

奥州街道は、江戸日本橋から福島県の白河を通って東北地方へと続く道

距離は約192km、宿場の数は27です。

実際に幕府が管轄していたのは、福島県白河までの区間だったとされています。

江戸時代中期になると蝦夷地の開発が進み、公用路としての利用が増えていきました。

⑤甲州街道 (こうしゅうかいどう)

甲州街道は、江戸日本橋から山梨県の甲府を通り、長野県の下諏訪へとつながる道

距離は約209㎞、宿場の数は45です。

五街道の中で1番最後に整備されたのがこの甲州街道であり、もともとは軍用道路に利用する目的で整備されました。

参勤交代での利用は少なく、利用した大名の数は3家と五街道の中で最も少ないのが特徴です。

徐々に農産物を運搬する目的で利用されるようになり、流通経路として重要な役割を果たしていました。

まとめ

五街道とは、江戸日本橋から各地を結ぶ5つの主要道路のことです。

参勤交代や物資の運搬を円滑におこなうため、江戸時代に整備されました。

そんな五街道ですが、今は国道20号が甲州街道を継承、国道4号が奥州道中を継承するなど、さまざまな形(国道や鉄道路線)として現代に影響を与えています。

今回の記事を通して、街道によってそれぞれ特徴が異なり、目的や利用数なども異なることが分かったかと思います。

当時の人々に思いを馳せながら、五街道を散策してみるのも良いですね。

目次