五街道が日本橋起点となっている理由はなぜか【簡単にわかりやすく】

五街道(ごかいどう)とは、江戸時代に日本橋起点で整備された主要な5つの陸上交通路です。

五街道には、江戸の日本橋から静岡県、愛知県を経由して京都府の三条大橋まで伸びている東海道(とうかいどう)があります。

 

日本橋から埼玉県や長野県、岐阜県を通って京都府の三条大橋まで続くのは中山道(なかせんどう)です。

 

さらに日本橋から山梨県、長野県の下諏訪まで続く甲州街道(こうしゅうかいどう)。

 

そして日本橋から福島県や岩手県といった東北方面に向かって青森県の三厩まで伸びる奥州街道(おうしゅうかいどう)があります。

 

最後は、日本橋から埼玉県を通って栃木県にある鉢石まで続く日光街道(にっこうかいどう)です。

 

この記事では、そんな五街道がなぜ作られたのか、日本橋が起点となっている理由についてご紹介します!

 

目次

五街道とは?簡単になぜ作られたのか解説

五街道とは

 

五街道とは、江戸を起点とした5つの陸上交通路です。

 

江戸時代に幕府が全国を支配するために、江戸と各地を結ぶ5つの街道の整備をはじめて基幹の街道に定めました。

 

五街道の特徴は、すべての街道が江戸の日本橋を起点にしていることです。

 

五街道がなぜ作られたのかを簡単にわかりやすく解説します。

 

五街道を作った理由のひとつとして、整備をはじめた江戸幕府の徳川家康が反逆や反乱を起こした地方の大名に対して討伐の軍隊を派遣するための軍用道路をつくる必要があったことがあります。

 

また、江戸幕府の3代将軍の徳川家光が定めた各地の諸大名を一定期間江戸に住まわせる制度である参勤交代のための道として使用することができるという目的もありました。

 

東海道を手はじめに徐々に街道が整備され、5つの街道が完成されていきました。

 

すべての街道の起点を江戸の日本橋に置くことで、江戸が日本の中心地であるということを印象づけています。

 

街道の要所には関所が置かれており、通行人を取り締まっていました。

 

実際に江戸時代に五街道を通行した大名の数は277にもおよぶといわれています。

 

五街道の日本橋起点理由はなぜか

五街道の日本橋起点

 

日本橋は日本の中心といわれています。

 

なぜなら、江戸幕府が編集したとされている地誌書「御府内備考」には、「この橋、江戸の中央にして、諸国の行程もここより定められるゆえ、日本橋の名ありと云ふ」という記載が残っているからです。

 

そのため、江戸幕府が日本橋を起点に五街道を発展させようとした意思がうかがえます。

 

日本橋は五街道を通って各地へ旅立つ人や、地方から江戸へ訪れる人などでにぎわい、日本経済の中心地として発展していきました。

 

全国からやってくる多くの人や文化が交流する日本の中でもあまりない街として進歩しているのです。

 

いまでは日本橋は首都高速道路の高架下にありますが、現在でも全国の交通網の起点となっており、証として「日本国道路元標」が日本橋の橋の中心に埋め込まれています。

 

日本橋のそばには、複製された「日本国道路元標」と「東京市道路元標」が設置されています。

 

五街道のまとめ

 

五街道は、江戸の中心地とされた日本橋を起点に江戸幕府が整備した主要な道路です。

 

全国の大名を取り締まる目的で作った道路ですが、日本橋に全国各地から多くの人やものが集まるきっかけとなりました。

 

1800年頃には江戸の人口は120万人に達して、世界最大規模の都市のひとつになっています。

 

同じ時代のロンドンの人口が約90万人、パリでは約50万人といわれていますので、当時の江戸は人口が多かったといえるのです。

 

道は人や物資の供給に重要な役割があります。

 

道が発展することによって街も進化することを改めて実感できるのが五街道の起点となっている日本橋。

 

いまでも進化し続けている日本橋へ足を運んでみてはいかがでしょうか?

 

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました!

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